Novel:25 『薄曇りの世界の中で 10』

「ま……まって!」
 屋敷を飛び出し、森の奥へと走る。
 後から誰かの気配がしているのは分かったが、無視して走った。一人になりたかった。誰とも話がしたくなかった。
 だが、気配はどんどんと追い掛けてくる。
 突き放すようにイザヤはどんどんと森の深い方に向かって歩いた。
「まって、その……きゃあ!」
 たどたどしい言葉が痛烈な悲鳴に変わったのを聞いて、覚えず振り返った。
 少し離れた場所でシルヴィアが倒れている。イザヤは慌てて彼女の元へ駆け寄った。
「大丈夫……ですか?」
 手を差し伸べると、彼女は一瞬微笑みかけるがすぐに大粒の涙をこぼし始める。
「え、え?」
 イザヤは慌てる。
 どこか怪我でもしたのだろうか。自分を追い掛けてきて彼女は転倒した。その上での怪我ならばイザヤの責任だ。
「どこか痛いんですか? 大丈夫ですか?」
 尋ねると彼女はふるふると首を振る。
 怪我はないようだったが、彼女は泣きやむことをしてくれない。何故彼女はこんな風に泣いているのだろう。理由も意味も分からなかったがイザヤは彼女の手を取りぎゅっと握った。
「その……泣かないで下さい。ぼく、逃げませんから」
「……」
 彼女が見上げる。
 不思議そうな表情だった。
 急に罪悪感が押し寄せ、イザヤは少し目を伏せた。こう言う時、何と言えばいいのだろうか。
「ジルを……」
「え?」
「連れて行っちゃうの?」
 言われて何故か心の奥がちくりとする。イザヤはそのために界を渡ったのだ。恥じることなど何もない。けれど彼女の顔を見ていると何故だか自分が悪人になったような気分になった。
 イザヤは敢えて強い口調で言う。
「当たり前です。あの人がいないと、ぼくの世界は滅びの運命しか歩めないんです」
「………」
 シルヴィアは目を伏せる。
 握っていた手が少し震えているのが分かる。
「世界が滅びるのはかわいそう。でも……ジルがいなくなるの、嫌」
「そんなこと……」
 世界の運命は彼女一人のわがままと天秤にかけていいものではない。けれど、何故か彼女の想いを完全に否定することが出来なかった。
 ジルがいなくなることに怯え、震える彼女は、ジルがいなくなって戻らないことを不安に思っていた自分に良く似ている。
「お願い……ジルを連れて行かないで」
 涙に濡れ、消え入りそうな声で彼女は言った。
 同じだと思う。
 彼女は自分と同じなのだ。
 歩き始めた世界は暗くて何も見えない。不安ばかりが付きまとう。そんな中にあってジルの存在は何よりも光り輝いて見える。不安定な世界でジルのように揺るがない存在がどれだけ人の支えになるかイザヤが一番よく分かっている。
 シルヴィアは別にジルを利用する為に近づいた訳ではないだろう。薄曇りの世界の中で、ただ一人輝いて見えるあの人に惹かれたのだ。むしろ先に手を差し出したのはジルのほうだったのかもしれない。
 シルヴィアは自分に似ている。
 だから多分余計に彼女の存在が割り切れないのだろう。
 ジルは馬鹿みたいに優しい。
 大切な人が出来ると、人はどうしてもその人を贔屓してしまう。どちからしか助けられないとしたら、大切な方を選ぶだろう。
 けれど、ジルは自分が後でどれだけ後悔するか知りながら‘多くを救える方’を選ぶのだ。
 命の重さには違いがないけれど、それでも極限の状態では人の感情やその人の思いが天秤を傾かせる。最後の最後まで足掻いて、それでもどうしようも無い時には平等に判断し、ジルは平等に人を救うだろう。冷たいように見えるかもしれない。けれどそれは彼が誰よりも優しいから出来ることなのだ。
 ……あるいは‘平等’に判断し、この世界の方を選ぶかもしれない。
 だからこそ、この世界の存在が惨いことのように感じる。
「……ごめんなさい。さっきのこと、全部自分に言いたかったんです」
「え……?」
 シルヴィアが顔を上げる。
 涙に濡れた大きな瞳がこちらを見ていた。
「じじ様多分それを分かっていたんですね。だから……」
 イザヤはくすりと笑う。
 叩かれた頬を少し触った。
 まだ少し痛みが残る。思えば初めて叩かれたのだと思う。腕力のそれほどない人だが、叩かれればやはり痛い。その痛みが彼の怒り。祖父が誰のためにあれだけ怒ったのかイザヤは知っている。
「ごめんなさい。……それでも、ぼくは、やっぱり自分の世界に‘滅べ’なんて言えません」
 矛盾していると思う。
 ジルに負担をかけたくないと思ったり、そのくせ一番負担になっている世界のことをジルに押しつけている。支えになりたいと言っているのになれず、空回りを続ける自分自身が一番嫌いだ。それなのに、そんな自分をあの人がすくい上げてくれる気がしてあの人という光に手を伸ばし続けている。
 この世界の人が、悪い人ばかりではないのは分かっている。けれど、あの世界と天秤にかければあの世界に傾く。どうしても戻れない時はこの世界にどんな影響が出るとしても無理にでもこじ開けて戻った方が良いと今でも思っている。
 いけないことだと分かっていても、自分はジルのように優しくなれない。
 力があればと思う。
 自分一人だけでも進んでいける力、ジルを支えられる力、人を守れる力。ほんの少しでいい。力があれば、違っていたのに。
 ぼろりと涙がこぼれた。
 涙の理由が良く分からない。
 拭いながらイザヤは続ける。
「連れて帰らなきゃいけないんです。ごめんなさい、貴方のお願いは聞けません」
 今度はシルヴィアが泣いたイザヤに動揺した。
 どうしていいのか分からないという風におろおろして、そのまま再び彼女も泣いてしまうのかと思った。けれど彼女は不意に表情を引き締め、何故かイザヤを抱きしめた。
 イザヤは突然の行動に驚く。
「シ……シルヴィアさん?」
「こうやってジルがしてくれると、泣きやめるんだよ」
「………」
「泣かないで。……ジルのところに帰ろう?」
 優しい匂いがした。
 身体から伝わってくるぬくもりが暖かい。
 目を閉じて、イザヤは素直に頷いた。
「………はい」





終わり無き冒険へ!