Novel:25 『薄曇りの世界の中で 11』

 屋敷の前まで戻ると、心配して出てきてくれたのだろう。紅蓮達の姿があった。あおいがぶんぶんと大きく手を振りながら近づいてくる。
「よかった、無事だった〜」
「だから、一人で行動するなって言っただろ! まったく、安全な森ったって、夜は危ねぇんだぞ」
「ごめんなさい……」
 少し怒りながら、それでも優しく紅蓮は笑う。
「ま、何事も無くてよかったな」
「心配したんだよ〜」
 横でミルドが呆れたように言う。
「その割には最後のお茶までしっかり飲んでいたよな」
 ばれたか、とあおいは少し舌を出す。
「えへへ、だって、ジルさんがいるんだし、大丈夫だと思って」
「こらこら、私をあまり買いかぶるでないよ」
 苦笑しながらジルが言う。
「シルヴィ、すまなかったね。ありがとう」
「……うん」
 ジルを少し見上げてイザヤは目を伏せた。
 手を伸ばされて少しぎくりとした。もう一度叩かれるかと思った。けれど、その手は優しくイザヤの頬に触れる。
 成人男性にしては細く、柔らかい手。
 見上げるとそこにはいつもの穏やかな笑みを浮かべたジルの姿があった。慈しみ、全てを抱擁してしまうほど優しい人の顔。
「先刻はすまなんだ」
「それは、ぼくが」
 悪いんです。
 その言葉を彼は続けさせなかった。
 ジルは首を振りただ優しく言った。
「いかな理由があろうと、暴力で解決するのは暴悪というもの。ましてそなたは聡い。言葉が通じぬ訳ではない。痛かっただろうね、すまなかった」
 そうじゃない。
 ジルは確かにイザヤの人のことを考えずに言った発言に怒っただろう。けれど、叩いたのはそんなことが理由じゃない。
 分かるから涙が出る。
 涙を隠すようにイザヤはジルの胸元に顔を埋めた。
 どうしてこうなんだろう。
 せめて心だけでももう少し強くありたいのに。
「……イザヤ」
「はい」
「先刻も言ったように、私達の都合でこちらの世界に影響ある行動は断じてならない」
「……はい」
「‘刻’が訪れるまでまだ時間がある。その間、そなたはこの世界を見てきなさい」
「世界を……?」
 見上げた顔は優しい。
 彼の指先が、イザヤの目尻に付いた涙を拭った。
「世界を巡り、人を知り、術を知れば見えてくるものもあるだろう。或いは私には見えないものを見てくるやもしれん」
「じじ様に……見えないもの」
「いいね? イザヤにしか出来ないことだ」
 言われてイザヤは頷く。
「はい」
 少し戸惑ったけれど、嫌だという理由が無かった。
 ジルは立ち上がりミルドを見る。
「ミルド……いや、ミルド殿」
「え? あ、はい!」
 先刻まで名前をそのまま呼ばれていた剣士は、突然敬称を付けて呼ばれ驚いたように背筋を正した。
 正してから、何故そうしてしまったのかと不思議がるように、微妙そうな表情を浮かべる。
 少しだけジルが笑った。
「時間の許す時でいい。この子を旅に同行させてやってはくれぬかね?」
「え? あ、ああ……そりゃ別に構わないけど」
 ミルドはちらりとあおいを見る。
 彼女は嬉々として答えた。
「私もいいよ。仲間は多い方がいいからね!」
「では、あおい殿にもお頼みしよう。……紅蓮殿」
「ん?」
「まずは道中難儀な目に遭っても、この子を見捨てずに来てくれたことに感謝を」
「別に感謝されるようなことはしてねぇって。人として当たり前の事だろう」
「当たり前のことかね」
「困ってる奴いたり、これから先困る奴がいて見ない振りなんて、普通しねぇだろ? あ、良かったら俺もイザヤの旅とやらに協力するぜ?」
「それは頼もしい」
 紅蓮の隣で霞丸が呆れたように息を吐いたが、何も言わずに明後日の方を向いていた。
 ジルは少し目を細めて霞丸を見る。
 何を考えているのか読めない表情だな、とイザヤは思う。時折、祖父がするこの表情はイザヤでは想像の付かないほど奥まで何かを見ているのだろうと思ってしまう。
「……必然か」
 ぽつりと祖父が呟いた言葉に霞丸が一瞬だけ反応する。
 少し睨むような目つきでジルを見ると、やはり黙ったまま背を向けた。
「ん? どうしたんだ、二人とも」
「いや、巡り合わせ、と言うのだろうと思ってね」
「何がだ?」
「私がここにいて、霞丸殿と紅蓮がイザヤに出会い、ここを訪れたこと」
「?」
 分からない、と紅蓮が不思議そうな表情を浮かべる。
 答えずにジルは言った。
「……また来なさい。今日のような月の若い日ではなく、月が満ちる頃にもう一度」
「ん、あ、ああ」
 紅蓮が頷いたのを確認し、ジルは皆を見渡す。
「冷えてしまったね。中へお入り、温かいものを用意しよう。……霞丸殿には何か甘いものもね」
「あ、ずるーい! 私も私も!」
 ぴょんぴょんと跳ねて主張するあおいをミルドが少し嫌そうに見やる。
「あれだけ食べたのにまだ食べるのかよ」
「だって、動いたらお腹空いちゃったんだもん。それに、甘いモノは別腹って言うでしょ」
「……凄い規模の別腹だな。て、いうより、この間‘だいえっと’とか騒いでいなかったか?」
「今日はいいの。沢山動いたし、特別! ジルさーん、私ケーキがいいなぁ! クリームたっぷりの」
「大福だ」
 二人の要望を受けて、ジルは笑う。
「用意させよう。シルヴィも食べるかね?」
「うんっ! あ……えっと………準備、手伝って来るっ」
「あ、私も手伝う!」
「む、貴様、手伝うと見せかけて、大福をつまみ食いする気だな。行くぞ紅蓮、断固阻止する」
「ていうか、お前がつまみ食いする気満々じゃねぇのか?」
「おーい、あおい! 手伝うのはいいけど、迷惑かけるんじゃ……」
 あおいを追い掛けて霞丸と紅蓮が入っていった直後、奥の方から何かをひっくり返したような音が響く。
「あー、もう、言う側から……」
 ミルドもまた追い掛けて屋敷の中に入っていく。
 その様子を見ながらジルは楽しそうに笑った。
「にぎやかだね」
 イザヤは祖父を見上げた。
「いつもこうなんですか?」
「そうだね。いつもここは笑いに満ちていると思うよ。けれど今日は特別だ。イザヤが運んできたようだね」
「そう、でしょうか」
「そうだよ。ああ、言い忘れていたことがあったね」
「え? 何ですか?」
 不思議そうにするイザヤにジルは微笑む。
「おかえり」
 その言葉にイザヤは驚く。
 そして急に気恥ずかしいような、くすぐったいような奇妙な気分になって笑った。
 どんなに世界が暗くても、この人の所だけは明るい。
 どんな世界にあっても、この人が自分の帰る場所なのだろう。
 イザヤは少し甘えるように彼の手を握った。

 ぎゅっと優しく包み込んでくれたその手は、誰よりも暖かだった。





終わり無き冒険へ!