Novel:25 『薄曇りの世界の中で 9』

 軽く食事をとったあと、ジルはテーブルから離れて、イザヤをソファの方に座るように促した。
 テーブルの方には甘い香りのするお菓子が運ばれており、銀髪の青年が黙々と食べていた。初めは驚いたが、それが霞丸の本来の姿のようだ。その勢いにまけじとあおいも焼き菓子を次々とたいらげている。ミルドは少し口に運んだようだったが、霞丸の勢いに少しげんなりしたように口元を押さえている。
 怖々と彼に近づき、山盛りの‘大福’という食べ物を差し出したシルヴィアは、そのまま戻りジルの横にちょこんと座った。
 結局食事中まともに会話が出来なかったために、彼女が何かというのも聞けずにいた。
 ソファの近くの低いテーブルには緑色の葉の入ったお茶が二つと、甘い匂いのする小麦色の飲み物が用意されていた。
「麹塵茶だよ。面白い事に‘翔’にある麹塵と葉の形は違うが、味も効能も良く似ている。飲みなさい。暖まる」
「……はい」
 手にとって飲むと、馴染みの苦い味が広がった。
 気持ちの落ち着く味だと思う。
「向こうは変わりないかね?」
「はい。……じじ様が不在のため、歪みが増えていますが、シウの者で何とか持ちこたえています。ですが、そう、長くは保たないと思います」
「そうか」
「あちら側に目印を置いて参りました。誤差が増える前に一緒に戻って下さい」
「さて、どうしたものか」
 少し思案するようにジルは唇に触れた。
 何をそんなに迷うことがあるのだろうか。
「親友殿が私をこの世界に落としたのは、おそらくこれを見つけさせるためと思うが」
 どこから出したのか、ジルは一冊の小さな本をイザヤに渡す。
 受け取ってイザヤは見る。
 見知らぬ文字が並んでいる。それどころか本は歯抜けになり、所々黒く焼けこげて読めなくなっている。
「陽糸術という。アドニアという国で見つけた太陽に糸を繋ぐ方法を書き記した書物だ」
「……太陽に糸……恒星落陽と逆の術ですか?」
「そう、だが見ての通り長い年月と、戦火により、半分が失われている。私はこちらのシウの総力をあげてこの本の復旧に臨んでいる。これは恒星落陽とあわせ使えばもう少し多く救えるやもしれぬのだ。故に今すぐ戻るという訳にはいかぬ」
「なら、ぼくも手伝います。直し終えたらすぐにでも帰りましょう」
「直し終えこの世界に影響が及ばない‘刻’が訪れたらね」
 それは暗に帰りたくないと言われているように聞こえた。イザヤはきっ、とシルヴィアを睨む。
 びくり、と彼女が肩を振るわせた。
 彼女の手がぎゅっとジルの腕を掴むのを見て、イザヤの頭に血が上る。
「その人のせいですか?」
「シルヴィのせい? 何がだね?」
「じじ様が帰らない理由です。……前にも、泡沫の気配のする女の子を見ました。あの子やその人の為に、貴方は戻らないんですか?」
「……それって……フィーナちゃんの、こと?」
 シルヴィアは窺うようにジルを見る。
 ジルは少し頷いた。
「おそらくフィーナの事だろうね。あの子に大事なきようにと、少し守らせているから」
 守らせていると言った。
 やはり当たりだ。
「……どうしてですか」
「人を守るのに理由がいるのかね? ……イザヤ、少し落ち着きなさい」
「ぼくは落ち着いています!」
 大嘘だ。
 頭に血が上って自分が何を言っているのかも分からなくなっている。怖かった。泡沫の気配のする女の子を見てから。そして、シルヴィアがジルの腕を縋るように握っているのを見て更に怖くなる。
 あの世界よりもこちらに大切なものができてしまったのではないかと。
「……どうして、じじ様を利用しようとするんですか」
「り……よう?」
 言ったら駄目だと思う。
 けれど、止まらない。
「じじ様は、あなた達がたよっていい人じゃないんだ。利用して、じじ様を苦しめないで下さい」
「止しなさい、レイジャ」
「……じじ様帰りましょう。今すぐにでも。道はぼくが開きます」
 イザヤは立ち上がり、シルヴィアをジルから引きはがすためにジルの袖を引いた。
 強い口調でジルが返す。
「それは駄目だ。この世界に深刻な影響が出てしまう。教えたはずだね、低き道は本来あるべき形ではない。無理にこじ開けたら惨事になる」
「そんなこと、分かってます! でも、このままじゃ、じじ様は……」
「こちらの都合で、この世界を歪めるのは断じてならない」
 諭すような口調だった。
 分かっている。そんなことは分かっているのに、口から出てきた言葉は違う言葉だった。
「……じじ様を利用するだけしてきた世界のことなんか、ぼくは知らない」
 瞬間、ジルの顔色が変わる。
 笑みが消え、立ち上がった彼に襟首を捕まれた。
 ぱん、と小気味のいい音が響く。
 同時にイザヤは横に飛ばされ尻餅を付く。
 音に驚いたのか、騒がしかった室内がしんと静まりかえった。
 じわり、と頬に痛みを感じる。叩かれたと認識した時には涙でジルの顔が見えなくなっていた。
 気配で、おろおろとしているシルヴィアがいるのが分かった。
 イザヤは頬を抑える。
 痛い。
 叩かれた頬よりも、心が押しつぶされそうに痛かった。
「………私は、そなたにそんなことを教えたつもりはないよ」
「でも……」
 言い訳の為の言葉はそれ以上続かない。
 自分がどんなに愚かで悪いことを言ったのか、分かっている。自分たちが救われるために他の世界をどうにかしていいわけではない。
 そんなことが許されるなら、祖父は何も言わず ‘暁’をたたき割るだろう。
 でもそれをしないのは‘暁’にも‘翔’と同じように人が住んでいるからだ。そしてこの世界にも人が居る。
「この世界は、本当に私を利用するだけの世界かね? そなたの出会った紅蓮やミルドたちは、自分の都合で他人を利用する者達だったかね?」
「………」
「そなたは、この世界の何を見てきたのかね?」
「ぼくは……」
 駄目だと思う。
 もう足が崩れそうな程震えている。立っている自信が無かった。
 イザヤはドアに向かって走り出す。
「イザヤ!」
 心配した誰かの声が追ってくる。
 それに答える余裕もなく、イザヤは部屋を飛び出した。


 ジルの顔を見るのが、怖かった。





終わり無き冒険へ!