Novel:25 『薄曇りの世界の中で 1』

 めまぐるしく変わる光の‘輪’から抜け出て、初めて目の前に広がったのは大きな‘青’だった。
「……海?」
 呟くのが早いか、彼の身体は重力に逆らうことが出来ずに海へと落下する。
 口の中にしょっぱい水が入ってくる。
 イザヤは慌てて口元を押さえた。
 突然海の中に放り出されて前後を失う。海流に巻き込まれ、浮くことがかなわなかった身体が沈みかけているのが分かった。
(……どうしよう)
 何とか身体を立て直そうとした時だった。
 何かが、海の底からイザヤを押し上げた。
(……なに?)
 逆らうことも出来ず身を任すと、それはぐいぐいとイザヤを押していく。海の流れよりも速く、まるで海と一体になっているような奇妙な感覚だった。水の中にいるというのに不思議と呼吸は苦しくない。
 何かがいる。
 未知のものに対する恐怖は不思議と無かった。
 やがて、イザヤの身体は海岸に押しやられる。
 海岸に上がり、彼は思いっきり咳き込んだ。
 微かに飲み込んだ海水が、喉の奥を灼け付かせているかのようだった。
「大丈夫?」
 問われ、イザヤは顔を上げる。
 青が見えた。
 綺麗だと感じる。
 長く青い髪と金の瞳を持つ美しい女の人だった。
 不意に何かの記憶が流れ込むかのように頭の中に名前が浮かび上がった。
「     ?」
 脳裏に浮かんだ名前を口にすると、彼女は少しだけ驚いたような表情を浮かべる。そしてにこりと笑い、イザヤの頬に触れた。
 優しそうな人だと思う。
 そしてとても強い人という印象を覚えた。
「違うわ。それは捨てた名前」
「捨てた?」
 女に手を貸され、イザヤは立ち上がる。
 不思議な雰囲気のある人だった。
 まるで海そのもののような気配がある。
 少なくとも普通の人間ではないとイザヤは思う。それともこの世界の人間というのは彼女みたいな者ばかりなのだろうか。
 強い海の気配を持つ女はぐっしょりと濡れたイザヤの髪を撫でる。
「今はメレディスよ。……レディでいいわ」
 メレディスと名乗った女がイザヤに触れると、髪や衣服に染みこんだ海水が一気に海へと帰る。同じことを出来る人を知っていたために、イザヤは驚きもせずにほっと息を吐いた。
「あの、助かりました」
「あなた……」
 女の目が不意に鋭くなる。
 射抜かれるような、何かを探ろうとしているような視線だった。
「あの人と同じ‘古海’の匂いがするわ」
「え?」
 戸惑って彼女を見ると、彼女は風に長い髪をなびかせながら嬉しそうに笑う。
 ちりん、と涼やかな鈴の音が聞こえた。
「私が助けなくても、この世界の‘海’に‘あなたたち’は殺せない」
「……それってどういう」
「遠く異界であっても、古海があなたの味方なら、私はあなたを殺さない。だから海はあなたを殺せない」
「えーっと……」
「常磐と繋がる海は、終わりと始まりを示す。あなたは多分、始まりのほう」
「………」
 イザヤは押し黙った。
 何を言われているのか分からない。
 だが、やはり彼女は普通の人ではないと思った。古海というのはイザヤ達の言う‘混沌の海’の事だろう。その存在が分かるのであれば、彼女は普通の人ではあり得ない。まして先刻イザヤが呟いた彼女の名前は、‘始まりの海’と同種の名前。それは恐らく人の概念で言う‘海を司る神’の名前。
「あの……ここは神界なんですか?」
「違うわ。人の住まう土地、多くの種族と、多くの世界が交わる場所。ウィンクルムというわ」
 名前を聞いて、イザヤはその意味を理解する。
「……ウィンクルム……‘絆’の大地」
「そうよ」
 彼女は笑う。
 イザヤは彼女と彼女の向こう側の海を見つめる。
「……ここにじじ様がいる」
 延々と広い海を見つめて、イザヤは息を吐く。
 この世界にあの人がいるのだ。
 何かの理由で戻ってくることの出来ない、あの優しい祖父が。
「あなたも人を捜しているのね」
「‘も’って……レディさんもですか?」
「そう。私の魂を束縛する……絶対的に綺麗な男」
 彼女の瞳に恍惚そうな色が浮かぶ。
「‘ツィーダル’に会ったら教えて」
「え……教えるって……」
「あなたと私は‘古海’を隔てればいつでも会える。そうでしょう?」
 ざ、っと彼女の足下に波が迎えに来る。
 その波に溶け込むように彼女は静かに海へと戻った。

 イザヤは驚きもせずにそれを見送った。




01
メレディスとイザヤ(みえさん。)



終わり無き冒険へ!