Novel:16 『紅蓮の痕跡』4/4

「チャオ! よぉこそ〜ロカターリオ号へ〜〜ぇvv」

 そう、ゴンベたちを迎えてくれたのは、陽気な船長だった。「うるせぇぴんく」という長髪に「んもぉおヴァーちゃんたらホントに俺のこと好きだよなぁ〜〜vv」という謎の言葉を返していた船長は、なんというか、外見どおりの人物だった。
 ゴンベももう何度もこの船に世話になっていたが、ピンク色したハートのサングラスをかけているその船長を見る度に、「いろんなやつがいるもんだなぁ」と感想を抱く。決して嫌いではないが。
 海上のロカターリオ号での生活は、必ずしも単調なものではなかった。なにしろ、船員の殆どが明るく煩くやかましい。いきなり裸になって海に飛び込み始める者が一人いれば、何故かその後を追うように次々に海に飛び込んでいく。その様子を見る度に、「あいつら海から生まれたんじゃないか」と疑いたくなるほどだ。そして率先して飛び込んでいくのは、大抵が例の船長である。
 逆に、絶対に飛び込まない者も中にはいた。赤いバンダナをつけた小柄な船員だ。名前を何度も聞いているはずだが、ゴンベにはどうしても覚えることができなかった。その赤バンダナの船員は他の乗組員達が海に飛び込み始めると、呆れた顔にちょっぴりうらやましそうな成分を含ませてその様子を見ている。今にも飛び込もうと上衣を脱ぎかけた船員が「ジェンも飛び込まないのか?」と訊ねているのを何度か見かけたが、その度に赤バンダナの船員は「風邪、ひきたくないからな」と笑って首を振っていた。

 そんな、船上での生活にも慣れてきたある日だった。
 昼間、パーティーの少年とともに船外で小船に乗って魚釣りをしていたゴンベがようやく甲板に戻ってくると、船長が入れ替わりに海に飛び込んでいた。どうやら、溺れた長髪の男を助けに行ったらしい。
 船長と男が戻ってくるまで、船は動かせない。そのため、ゴンベが暇そうな船員や他のパーティーのメンバーと話をしていたときだった。
 騒がしい船内で、誰かが「天気が怪しいな……」と呟いた。他の場所からは「まったく、こんな時に」と船長への呆れたような声も聞こえてくる。乗船している者達がめいめいに好き勝手話をしている船上は、まったくもって騒がしい。
「……で、そん時そいつがなー」
 ゴンベはそう言うと同時に、背後に強い圧迫感を感じた。そして、振り返ると―――女が、いた。女が船にいること、それ自体はなんら問題ない。ただ今目の前にいる女は、この数日間、見たことがなかった。それが、何故いきなり船上に?
「……見つけた」
 小さく呟き女が笑う。その目は、確実に自分を見ていた。
「見つけたわ、ツィーダル」
 ツィーダル。
 女が口にした名前は、ゴンベの知らないものだった。だが、その名前を聞いた瞬間、ゴンッと何かで叩かれたように頭に響いた。ツィーダル? 誰だ、それ。そして、この目の前の女は? この、青い髪をした、女は―――?
「あんた……」
 ようやく出した声は、掠れたものになった。喉が、急速に渇いている。いきなり現れた女――それも、船上に。だが、それは、あり得ないことじゃ、ない……? そう、それが決してあり得ないことじゃないと、彼は知っていた。だが、何故……?
「あんた、誰だ?」
 ようやく出した問いは、思いの他軽い調子のものになった。途端に、肩の力が抜ける。
(そうだ――俺は、この女を知らない。なのに、そんなに慌てる必要がどこにある?)
 だが女は、それまで笑っていた表情の温度を急速に下げた。
「……なん、ですって?」
 まるで、その問い掛け自体が罪悪だというように、女が訊き返して来る。だからと言ってどうしようもなく、ゴンベは頭を掻いた。
「あんた俺のことしってんの?」
 少なくとも、女の口調を聞く限りはそうなのだろうが………しかし、女はその言葉に僅かに残っていた口元の笑みすらも、消した。
「……ふざけているの?」
 怒ってんのかな、と。場違いにのんびりした感覚で、ゴンベは思った。頭から手を離してパタパタ振りながら、
「えー、ふざけてねぇって。俺、記憶喪失なんだ。気付いたら荒野にいてよー、何にもわかんねぇし……って、あー、あんた、俺のことしってんだったら教えて……」
「ふざけないでっ。…………記憶、喪失……ですって……?」
 強い調子で言った途端、女は顔を手で覆った。それに、戸惑ったようにゴンベは鼻に皺を寄せる。
 ―――いつの間にか降り出した雨は、甲板を尚更強く叩き始めていた。
「おねーさん……、あの、何だかしらねーけど、船内行かないか? こんなところじゃ風邪ひくし」
 そう、女に声を掛けたのは赤バンダナだったか。ある意味冷静で――そして、間の抜けた発言だった。
 女はそれに答えず、唐突に笑い始める。はじめは小さく。そして、段々哄笑と呼べるほどに。赤バンダナがもう一度女を呼ぶが、それも聞こえないらしい。
「ふふふ……あははは……!」
「……何、笑ってんだ?」
 先ほどまで怒っていたのに、いきなり笑いだすなんて。普段ならば見知らぬ者の行動が不可解だろうと気にも留めないが、自分の過去を知っているらしい発言をした女だ。無碍にすることも、無視することもできない。
「本当に何も覚えていないのね」
 確認をするように、女が問うてきた。
「だからそう言ってるだろー? これでも苦労してんだぜー、うん、色々と」
 「色々」な苦労は主に食料確保の面であったが。まぁ嘘は言っていないだろうとゴンベは一人頷いてみせる。
「……大丈夫よ」
「ん? 何がだ?」
 意味がわからず、ゴンベが訊き返すが、彼女は「記憶が戻らなくても大丈夫」と丁寧に言い直してきただけだった。それの一体どこが大丈夫だというのだろうか。だいたい、先ほどまで記憶の有無に誰よりも拘っていたのは彼女だというのに―――。
 と。
 女が、不意に手を挙げた。なんだ? とぼんやり眺めていると、降りしきる雨が、女の手元に集まっていく。そしてそれは、しばらくも経たないうちに剣の形をとった。
 女が笑う。それは、背中に冷たいものを覚えさせる笑みだった。
「貴方のこと、ちゃんと殺してあげるから」
 魅惑的な声――だが、その声の意味するところは。
 女が唐突に駆け出す。周囲の人間が武器を構えるのがわかった。ゴンベもまた、腰の獲物に手を掛ける――が、女の方が圧倒的な速さを持っていた。そして、その水の剣を振り上げる――ゴンベに向かって。
 ゴンベは抜きざまに剣を女の手元へと打ち込んだ――正確には、女の持つ剣に。そしてその勢いのまま空いた女の腹を凪ごうとする。
 しかし、女の方がやはり早かった。剣を止めることはできたものの、女はゴンベの攻撃を受ける前にその場から飛び退き、身軽な動きで着地する。
 誰かに名前を呼ばれた――だが、ゴンベにはそれに答える余裕がなかった。
 なんなんだ今のは……。
 ゴンベの知る限り、こんなに速く、正確に打ち込んでくる人間はいない。森で会ったヴェイタすら、ここまでの動きはしていなかった。なんなんだ、この女は。
(記憶を失う前の俺は、こんなヤツと知り合いだったのか………?)
 気を抜けば、今度こそあの剣が襲ってくる。心臓がドキドキした。身体が震えるのは、冷たい雨のせいばかりではない。だが、それ以上に身体が熱い。
「思い出しなさい、ツィーダル。貴方が何か。そして、私が何か」
 女は、そう高らかに言った。
「貴方は、そんなものではないはずよ」
 一緒に旅する誰かの仕業だろう――ゴンベを援護するためにか放たれた魔法は、あっさりと女に弾き飛ばされた。剣を振るった者も、また。圧倒的な強さで、彼女は他の人間達を退けていく。相手の動きを見もせずに。
 女は意外なほど優しく、打ち倒した者たちに微笑みかけた。
「私はメレディスよ。覚えておいて。それが………水に棲む化け物の名前」
 メレディス―――その名前が、妙に耳に焼きつく。そんなこと、今までなかったのにも関わらず。
 誰かが、女に武器を投げつける。女はそれも、いともあっさり払い落とした。
 それを契機に、女はこちらに向かって駆け出す。ちりん、と。彼女の身につける鈴が鳴った。どこかで聞いたものと同じその音を耳に焼き付け。ゴンベもまた、敵わないと知りながらも向かわずにはいられなかった。逃げるという選択肢はない。それは、ここが船上だからではなく、きっと地上でも同じだった。
 逃げたく、ないのだ。
 自分は、彼女と戦いたがっている。
 ギィィンッと甲高い音が鳴る。吐息さえ聞こえる程の近さで武器を重ねた向う側――女の顔は、妙に愉しげだった。そして多分、自分も。
「……メレディス……」
 呟いた口の感覚に、自分はこの名前を知っているなと思う。そう――知っているはずだ。だって、夢で何度も見た。激しく熱い“青”と戦う夢を。武器を重ねる夢を。それほどに――待っていた。この時を。
 だからこそ、もどかしい。自分が彼女を思い出せないことが。自分の記憶がないことが。記憶をこんなにも切実に取り戻したいと思ったことなんて、今までなかった。そう、夢の中では、状況はもっと切迫していたはずだ――これ以上に、愉しい闘いをしていた。
 振るう度に、剣が熱を帯びていく。闘いの場以外では鈍らでしかない剣は、もっと自分たちの力を引き出せとばかりにゴンベの両の手に馴染んでいく。ゴンベの身体もそれに応えるように、感覚を研ぎ澄ませていく。無駄な分の呼吸はしない。五官を広く、広く広げていく。同時に、神経が冴え渡っていく。
 ゴンベは、雨で濡れた唇を軽く舐めて女を見た。
「ツィーダル」
 女が、まるで闘っている敵に向けるには場違いな甘い声音でその名を唱える。知らない名前――だが、彼女が言うならきっと、それが自分の名なのだろう。それから、ぎらりと瞳を輝かせ。
「まだよ。まだ足りないわ! 貴方の力、こんなものじゃないはずよ!」
 ――来るッ!
 そうゴンベが直感した通り、女は叫ぶなり床に溜まった水を蹴って斬り込んできた。今度は、かなり深い。
「―――ッ」
 来る衝撃に耐えるため、ゴンベは剣を構えた。
 ―――と、そのとき。
「っ!?」
 ガクッと、激しく船体が揺れた。なんだと思う間もなく、波が高くなっていることに気がついた。あちこちで、悲鳴が上っている。
 立っているのが精一杯なほどに、嵐で荒れた波は容赦なく船を揺り動かしていた。ふと周囲に視線を走らせると、中には立っていられない様子の者までいる。彼は軽く舌打ちし、目の前の女に視線を戻した。
 先ほどまでゴンベとの闘いに輝いていた彼女の黄金色の瞳は、しかし今は彼を見ていなかった。何かに気をとられている。何に……? そう、彼がいぶかしんだのとほぼ同時に甲高い悲鳴がどこからか聞こえてきた。それは、女の視線の先。
 振り返ると、小柄な人間が船体から放り出されるところだった。赤いバンダナが、雨でかすんだ視界に鮮やかに映える。
「ジェン――!」
 緑色の服を着た男がそれに手を伸ばすが、間に合わない。小さな身体は、黒くうねる海の中にあっさりと呑み込まれていった。
「ありゃぁ……」
 どうしようもないな、とゴンベは口の中だけで呟くと、女に向き直った。今は、他所を気にしている場合ではない。彼にとっての最優先は、彼女との闘いを続けることだった。
 だが。
 一部始終の出来事に女は表情を焦らせると、ゴンベの方など見もせずに空に向かって高らかと何事かを叫んだ。途端、それまで激しく吹き荒れていた嵐が弱まりを見せる。そして彼らを強く打っていた冷たい雨に風、それに船体を揺らしていた波もまた一気に静かなものになる。
 そのまま、女は足早に騒ぎとなっている所まで近付き、他の人間達を押し退けてヘリに昇った。
 「何をしている」――そう問おうとした瞬間、女がこちらを振り向いた。瞳にあるのは、変らぬ激しさ。だが、それを押し留めるように、彼女はゴンベをじっと黙って見つめていた。
「勝負はまだついていない」
 そう、言おうかとも思った。「逃げるのか?」は、なんだか違う気がする。結局、彼女の真っ直ぐに自分を射る視線に何も言うことができず、彼は口を引き結んだ。
 それに、彼女は緩く首を振り。そのまま綺麗に海の中へと飛び込んでいった。

 仰いだ天は、黒い雲の隙間から青い空を覗かせており。彼女と同じその色に、ゴンベは小さく息を吐いた。

*********

「―――あっちだ!」
 料理でもしていたのか、エプロンを身につけたままの大柄な男が、浜辺を指差して叫んだ。
「船長に……ジェンに、あの女も……全員いるぞ! 無事だッ」
 双眼鏡を覗き込んでの男の台詞に、船中が歓声を上げた。そして大騒ぎしながら、陸に急いでつけた船から下りて浜辺を駆け出す。
 腰の鞘に剣を収めて目を瞑り、その声をどこか遠くに聞きながら、ゴンベはマストに寄りかかった。
「―――べ………ゴンベ!」
 不意に間近で聞こえた声を片眼を開けると、青い髪をした青年と、その腰にひっつくようにした獣耳の少年がいた。眉を寄せ、うかがうような目でこちらの顔を覗き込んできている。
「大丈夫か? 怪我とか……」
「ん? あぁ……大丈夫だ」
 身体中の筋肉組織は悲鳴を上げていたが、それはむしろ心地よい痛みだった。それよりも、こちらを見てくる青年の目に浮かぶ感情の色や、そもそもなんでそんなことを訊ねてくるのかといったことの方がゴンベにとっては不可思議で。
 ゴンベは軽く首を傾げ、
「………なんでだ?」
「なんで……って。心配したからに決まってるだろっ!?」
 訊ねた途端に怒鳴られ、彼はきょとんと目を見開いてしまった。むしろ、その語られた内容に。だからもう一度、懲りもせずに「だから、なんでだよ」と訊いてしまう。今度は青年は怒鳴らず、どこか呆れたような表情で彼を見た。
「なんでって………あの人、すごく強かったし。心配して当然だろ?」
「ふぅ、ん?」
 「心配」というものが彼自身からはとても縁遠い言葉のような気がして、ゴンベは小さくうなった。正直、青年の言っている意味はまだよくわからなかったが、なんとなく悪い気はしなかった。
「………だから、大丈夫だって。それより、お前もあっち行かないでいいのか? 目が、先から気にしてる」
「う、うん……。まぁ、ゴンベは大丈夫そうだし、な。……行こう、ニックル」
「あう!」
 パタパタと尾を振り頷く少年を連れ、青年は人混みの方へと駆けて行った。その足音が遠くなるのを聞きながら、ゴンベはゆっくりと頭を振り、マストから身を離した。そして、欄干の方へとゆっくり歩を進める。
 先ほど男が指差していた方を見ると、三つの人影があった。そのうちの青い影が、彼女だろう。
 ふと、その影がこちらを見たような気がした。視線が交わるのを感じる。
 なんとなく、視線の先のその人物が笑ったような気がして、彼もふっと息を漏らした。
「………また、待ってるからな」
 その言葉が相手に届いたかは確かではないが―――。

 湿った潮風が吹く。それは、雨に湿った彼の紅の髪を弄び、彼の言葉を攫って、遠く、遠くへと吹き抜けて行く。
 その風の終着地に再び鮮やかな蒼との出会いがあることを、彼は信じて疑わなかった。




ツィーダル(ゴンベ)・メレディス 他
文:穐亨

終わり無き冒険へ!