Novel:16 『紅蓮の痕跡』3/4

 次の日、インテグラを出たゴンベは森の中で図書館から借りた本を読んでいた。
「ふぅん……南……アドニアかぁ。うまそうなもんがいっぱいあんだなぁ」
 青年司書が貸してくれた本には、地図とともに各地の名物が書かれていた。それによるとこれから向かおうとしていたアルナは、フルーツが特産品らしく、また水が綺麗らしい。そうなると、酒も上物が期待できる。
「じゃあアルナで果物と酒を食ったあと、アドニアまで行ってまたなんか食うかぁ」
 アルナへ行く当初の目的を忘れたようににやにやと一頻り笑ってから、本を大切そうに鞄に仕舞い込み、代わりにポケットから昨日もらった缶詰を取り出す。缶詰に描かれた絵を見る限り、魚か何かが入っているようだ。機嫌良く鼻歌を歌いながら腰に差した短剣でその缶を開けようとする―――が。
「……あ、あれ………?」
 短剣は、あっさりと缶に跳ね返されてしまった。まるで鈍らのように。眉を寄せ、何度も振り下ろしてみるが、小さな凹みが缶の蓋につくばかりだ。仕方なく長剣の方でも試してみるが、それでも結果は同じだった。
「おかしぃなぁ………この間、猪獲ったときはそんなでもなかったのに………」
 この二振りはゴンベが記憶喪失になったときにはすでに持っていたものだった。記憶喪失になる前の自分は余程この剣を使いこんでいたのか、剣の柄はゴンベの手の形に合うように形が若干変形までしている。
 いい加減、手入れが必要なのだろうか。
 そう、難しい顔をして剣を睨んでいたときだった。
 背後から、人の気配を感じる。振り向いた直後、茂みがガサガサと鳴り、そこから男が一人現れた。片目をやけに重たそうにしているが、もう片方の目でしっかりとゴンベの姿を捉える。身体は大きく、ひどく鍛えこまれた様子だ。そしてその腰には、ゴンベと同じく二振りを剣――ただし形状は違うようだ――を佩いている。
「なんだ……人がいたか。こんなところに座り込んでどうしたんだ?」
「別に……」
 そう不機嫌に缶詰を懐に仕舞いながら、ゴンベはうなるように言った。同時に鳴った腹の音は、その声にかき消された。
「ふぅん………その剣。あんた、剣士か?」
「……一応な」
 頭を掻きながらゴンベが立ち上がる。地面に投げ出すように置いていた剣は拾い上げると、やはりしっくりと手に馴染む。
 男は面白そうに「しかも二刀流か」と笑った。
「俺も二刀流を使うんだ。……なんなら、手合わせしないか? そしたら、俺が売り歩いている商品、安く譲るぜ?」
 そう、男は背負っていた荷物を地面に置いて示した。商人か――それにしては、物騒な提案をするものだ。
(けど……おもしれぇな)
 無意識に口の端が引き攣る。戦いたい―――そう、全身が訴えている。ふつふつと、全身を巡る血が滾る。両手に握った剣も、それに呼応するようにますます手に馴染んでくるようだ。
「………いいぜ? その提案、のった」
 そう答え、両手に握った剣を構える。「そうこなくちゃな」と男も腰から獲物を抜いた。独特な形をした剣だ。鋭い輝きがあり、いかにも斬ることに特化したものといった様子だ。普通の剣に比べ薄いそれは脆そうだが、なめてかかると痛い目にあうだろうことが想像できる。
「……ただし、だ。こっちからも条件がある」
「………? なんだ?」
 促され、ゴンベはすっと息を吸った。男の顔に一瞬緊張が走る。
「―――俺が勝ったら俺に飯を奢ることっ!」
「………は?」
「なんなら宿もとってくれていいぞッ」
「ちょっと待て待て待てッ!」
 慌てた様子でストップをかけてくる相手に、ゴンベは「なんだよ」と不機嫌そうに訊ねる。
「どう考えても一方的に俺に不利だろうその案はッ。それとも俺が勝ったらお前も俺に何かしてくれるのか?」
「あぁ」
「…………何をだ?」
 あっさりと頷くゴンベに、訝しげに男が訊き返す。
「なにかいいことありますよーにってお星様に願いを」
「いるかっ」
 怒鳴る男に、ゴンベは「なんだよぉ」と顔をしかめた。
「だけど他にすることねぇし。仕方ねぇだろーこちとらもう一昨日から水しか飲んでねぇんだから」
 それを聞くと、男は疲れたように、どこか憐れみを含んだ目をして溜め息を吐いた。
「………わかった。飯ぐらいなら奢ってやるから……」
「じゃあ宿屋も」
「すぐに調子にのるなっ」
 再び怒鳴り、男はようやく武器を構えた。ゴンベも、両手に緊張を走らせる。
「俺はヴェイタ・コバルトだ。……あんたは?」
「俺はゴンベ」
 名乗った途端、男の顔から緊張が抜けかけるが、それも一瞬のことだった。それまで騒いでいたのなど嘘だったように、二人とも無言のまま対峙する。
 ―――空気の流れが変ったのは、何をきっかけとしたか。それは、葉が一枚舞ったことだったか、それとも緩く風が吹きぬけたことだったか―――男とゴンベは、まるで示し合わせたように同時に動いた。
 キィン……と高い澄んだ音が涼やかに鳴る。だがそれとは裏腹に、剣を重ねた男二人は熱を孕んだ視線で互いの顔を面白そうに見ていた。剣を握った手に力がこもり、肩の筋肉が盛り上がる。そしてどちらからともなく、その場から一歩跳び退く。
 無言のまましばし対峙する。ゴンベは自分の唇を舐め、にやりと笑った。そして、今度は男が動くよりも左手に握った長剣を一瞬早く打ち込む。ゴンベが剣を打ち込めば、男はそれを払うように薙ぐ。そしてその独特な剣を返してくるのを、今度はゴンベが身体を反らし寸で避ける。ゴンベが剣を突けば、男は巨体に似合わぬ素早さで後ろに下がった。
 ゴンベは自分の手に持つ剣が、缶詰を開けようとしていたときはまるで別のものであるように振るえば振るうほど鋭さを増していくのを感じていた。同時に、愉快になっていく。懐かしい感覚――ひたすらに、愉しい。
 ―――が。
「……!?」
 剣を振り下ろそうとした矢先、身体がガクンと傾いだ。鋼の剣を構えていたヴェイタも、あっけにとられたように動きを止めてそれを見ている。その視線に見守れる形で、あっという間にゴンベは地面に伏した。
「な……ど、どうしたんだ急に!? 大丈夫かッ」
 慌ててヴェイタがゴンベの身体を支えに入る。すると、ゴンベが小さく「……は………」と口を動かした。
「“は”………?」
「………腹へったぁ………」
「………は?」
 ゴンベのの腹が、奇妙に間の抜けた音を立てて鳴った。

******

「うんめぇーっ」
 満面の笑みを浮かべながら、ゴンベが実に幸せそうに言った。
「もう少し落ち着いて食えよ」
 呆れたようにヴェイタがその様子を見ながら忠告する。そして、手に持っていた携帯用の干し肉を焚き火の周りにさした。先は空けることができなかった缶詰も、ヴェイタの持っていた缶きりで開けて、今はともに火にかざされている。
 結局勝負はつかないまま、勝負はお開きになった。当初、ヴェイタが飯を奢るのはゴンベが勝ったらという約束ではあったが、倒れ込むほどに腹を空かせていたゴンベを見捨てることもできず、ヴェイタは持ち合わせの食料をわけてくれたのだった。
「いやぁ助かった! ヴェイタ、だよな。うん、飯をくれたヤツのことはわすれねぇぞ!」
「飯奢らなかったら忘れるのかお前は……」
「んー、ケッコウ」
 あっさり頷くゴンベに、ヴェイタは苦笑ともなんともつかない表情で笑ってから、「おかしなやつだな」と呟いた。
「それで……旅をしてるってのは?」
「あぁ……今、は。南を、目指して、る」
 はふはふと熱い肉を頬張りながらゴンベが答える。
「南? アドニアか?」
「そこも……行く、つもりだけど………あと、アルナ、ってぇ国。でも、まぁ、いろいろ……他にも、寄るけど」
 ようやくそこで肉を飲み下し、「うめぇ」ともう一度笑うゴンベを見ながら、ヴェイタは「ふぅん?」と顎に手を当てた。
「そんなに、南になんの用事があるんだ?」
「美味い物食いに行くんだ」
 あっさり答えるゴンベ。ヴェイタは思わず肩をこけさせて、「は……?」と訊き返した。
「……それだけのためか?」
「ん? うーん、他にもなくはないけど、まぁ一番の理由はそれだな、うん」
 旅の優先順位を、記憶喪失という一大事からあっさり食い物に譲る発言をし、ゴンベは温まってきた缶詰に手を伸ばした。火に炙られた表面に触ると当然熱く一度手を引っ込めたが、布に包んでフォークで掻きまぜると、魚を煮立てたスープからほわりと湯気が上り、トマトの酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐる。
「また、やろうな。手合わせ」
 魚を頬張りながらゴンベが言うと、ヴェイタは虚を突かれたような顔をしたあと、「あぁ」と楽しそうに笑った。
 パチパチと、焚き火も楽しげな音を立てて爆ぜた。

******

 ―――その夜。
 ゴンベは、夢を見た。
 闘いの熱に浮かれた戦場。そこで、ゴンベは剣を振るっていた。周囲を取り囲むのは、異形の集団。魔族だ―――そう、直感的に判断する。
 魔族は敵だ。滅ぼすべき相手。だから、剣を振るう。
 一転して、周囲が静寂になる。耳が、痛いくらいに。いつの間にか周りに魔族の群はなく、真っ白なただそれだけの空間に、ゴンベはいた。
 視線の先には――印象的な、青。
 ゴンベはそれを見た途端、自分の胸が熱くなるのがわかった。
 待っていたんだ―――そう、青に向かって口にしたが、言葉は音にならなかった。
 不意に自分の髪が背中に揺れるのを感じる。それを、不思議とは思わなかった。だって、そうだ――俺の髪はうざったいほどに長いんだから、当然だ。右手に長剣を持っているのだって、不思議でもなんでもない。だって、そうだろう? 俺は右利きなんだ……左で長剣を振るう方がおかしいってもんだろう?
 彼は走り出した――青の元へ。そして、剣を振るう。
 その瞬間、青がさっと霧のように散った。呆然とする彼の耳元で、ちりん……という軽やかな音がする。
 そして――彼は、身を起こした。
 息を震わせながら髪に触れると、それは短いままだった。右手には、古びた包帯。そして周囲は闇に覆われた森だった。
 パチリ、という音がして慌ててそちらを見ると、単に焚き火の爆ぜた音だった。
「どうしたんだ……?」
 焚き火の番をしていたヴェイタが、驚いたようにゴンベに声を掛けた。
「急に起きたりして……ひどい汗だぞ?」
 言われて、ゴンベは初めて、自分が冷や汗に濡れていることを知った。息もあがり、肩が上下している。
 ゴンベは額に手を当て、唾液を乾いた喉に嚥下してから「いや……」とうめいた。
「なんでも、ない………ただの夢だ………」
 ただの、夢。
 それは、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
「ただの……夢だ」
 それを、呪文のように繰り返す。
 息を整えて、再び身を地面に横たえる。湿った土の匂いが鼻先に香る。
 ―――目を瞑っても、あの鮮やかな青は目に焼きついて離れなかった。

******

 ヴェイタと別れ、ゴンベは言葉通り南に向かうことにした。
 前と変らず、適当にふらふらと道を行きながら、初対面の相手に飯や宿をたかる。うまくいくときもあれば、なかなか難しいときもあるが、それはそれで楽しかった。
 しかし、あの日以来、何度となく同じ夢を見る。その時々によって内容に多少の違いはあるものの、それは“青”の夢だった。気付けば彼は、現実でもあの“青”を追うようになっていた。
「―――青いの、知らないか?」
 出会う旅人たちにそう訊ねるのが、いつしか彼の習慣になっていた。
 だが、いかんせん手がかりが少ない。そもそも、夢では“青”が人なのか魔族なのか、それとももっと別のなにかなのかもわからなかった。
 試しに、森の中で出会った魔族の青年にも訊いてみたが、青年にも心あたりがないようだった。ただ、訊かれた。どうして夢で見ただけのものをそんなに追っているのかと。
 理由なんて、考えたこともなかった。ただ、そうするべきだとは知っていた。それだけだ。そして――会ったとき、もっと今より愉しいことが起こる――それだけは、わかった。
 “青”を探すためにも、ゴンベはわざと遠回りをしながら南へと向かった。あちこちに行けば、そのうちなにかがわかるかもしれない――だが、特に収獲はないままだった。
 そのうち、ある宿屋で旅をしているパーティーの仲間になった。飯を奢ってもらった――というより、無理やり飯代を肩代わりしてもらった――礼でもあり、その夜の宿代をもってもらうためでもあった。
 しかし、何よりも。そうすることが、“青”に近付く近道なのだと、ゴンベは直感していた。

******

「インテグラ?」
 聞き覚えのある名前に、ゴンベは朝食のスープを掬っていたスプーンを銜えながらしばし眉間に皺を寄せ、
「あぁ――あのでけぇ街か」
「知ってるのか?」
 斜め前に座った青年が、意外そうに声を上げるのに、ゴンベは「あぁ」と頷いた。
「前に、行ったことあるしな」
「へぇ……じゃあ、行ったらゴンベに案内してもらおうかな」
「にーちゃんの案内じゃ迷いそうだと僕は思うがな」
 隣に座っている黒髪の少年が呟くのに、ゴンベは「んだとぉ?」と、ぴょんと飛び出た少年の髪の毛を引っ張った。「いでででっ」と少年が悲鳴を上げながら立ち上がり、少年と同様に突き出したゴンベの髪を引っ張り返そうとしてくるのを、ゴンベもまたもう一方の手で防御する。その様子を見て、一緒に座っている少女三人がそれぞれやんやと囃し立てたり心配そうにおろおろしたりしている。また鷹揚とした体格の良い男は苦笑を浮かべながらコーヒーを口にし、赤い布を巻き民族衣装を着た青年はやれやれとばかりに首を振り、その青年と似た服装の少年は目を丸くしてその様子を眺め。そして長髪の赤毛の男は我関せずとばかりにコップの水を数滴テーブルに垂らしもくもくとそれを使って絵を描いていた。
「う……ヴ、あぅー……」
「ん? あぁ、近くに港町もあるみたいだから、ニックルも美味しい魚食べような」
 隣に座り袖を引っ張る獣耳を生やした少年に、青年が柔らかそうな金色の髪を撫でながら言った。それに、頭を撫でられた少年が嬉しそうに微笑む。
 黒髪の少年と髪の毛を引っ張り合いながら、ゴンベもまたその言葉にピクリと反応した。そう言えば、以前行ったときは何も食べずに街を出てしまった。今度こそ、名物なりなんなりを食べよう。
「では、イーリアの提案通り、インテグラに向かうことにしよう」
 コーヒーをテーブルに置いた男性が、穏やかな口調で言った。
「あの街は情報も手に入れやすいし人も集まる。ここらあたりで寄っておくべきだろう」
「それじゃあ、近くに港があるし、今ならロカターリオ号が泊まっているらしいからそこから行こうか」
「またぴんくの船か」
 鼻で息を吐きながら、長髪の男が言う。テーブルの上に落とされた数滴の水は、いつの間にか可愛らしく丸々と太った猫の絵になっていた。「上手だね〜」と目を輝かせながら民族衣装を纏った少年がはしゃいだ声を上げる。
「うん。また、船長にお世話になろうと思う。それに………」
 と、そこで、それまで明るかった青年は顔に少しばかりの影を落とし、
「……あんな思いして乗せて貰えるようになったんだから、できるだけ活用したいしね………」
 ロカターリオ号の船長は気に入った人間しか乗せない――そのため、乗客ははじめに何かしら質問を投げかけられる。そのときのことを思い出したのか、青年は暗い表情のまま「はははははは………」と力のない笑みを漏らしていた。それを、明るい少女が「元気だしなよーミルド兄!」と頭をポンポン撫でてやり、ニックルと呼ばれた少年も励まそうとしているのか「う〜っ」と声をかける。
 ロカターリオ号に乗ると、新鮮な魚や腕の良い船員の料理を食べることができる――そのことを思い出しゴンベが思わずにやにやしていると、隙ありとばかりに取っ組み合っていた少年が髪を掴んできた。

終わり無き冒険へ!