Novel:16 『紅蓮の痕跡』1/4

 はじめに感じたのは、熱だった。それからようやく、痛みが全身を支配する。
 熱と痛みの中心は、利き手である右腕だった。見れば、今にももげてしまうのではないかというほど、深い深い創傷を負っている。そのことに頭の奥で叫び声をあげている自分がいる――が、実際に口をついて出たのは笑い声だった。
 全てがおかしかった――そして、愉しかった。愉悦。まさしく、その感情が彼を支配していた。
 目の前の相手も笑っていた。青く長い髪をし、青い衣装を纏った女。彼の腕に傷を負わせた女。彼女もまた腹から血を流し、何かを言っている―――が、戦という祭の騒音に呑まれ、その声は彼まで届かない。だが不思議と、女が身に纏っている軽やかな鈴の音だけは聞こえたような気がした。その音も、次第に遠くなっていく……相手の姿が小さくなっていくのとともに。
 一頻り笑ったあと、ほぅと小さく熱い息が、彼の口から余韻のように漏れた。その時初めて、彼は自分が地面に倒れていることを知った。いつの間にか、祭の音は消えている。一体、いつの間に? もしかして、笑いながら気でも失っていたのだろうか?――そこまで考え、思い出したようにくつくつともう一度小さく笑う。
「あんな……愉しい闘いは、初めてだ………」
 穢れた神――血を流し、血を流させる神として仲間である神々からも忌諱される戦神。神格も低く、本来なら高い神格の神々に遣われ、かしずかなければならない、そんな下級神の一人――それが、彼。
 そんな彼が、他の神におもねることなく、好き勝手な真似をしていても罰せられることなく許されているのはただ唯一、物理的な強さ――それを持っているからに他ならなかった。魔王との争いを制するために必要な駒の一つとして、彼は付加価値を持っていたらしい。
 事実、彼は初陣からその日まで、負けというものを知らなかった。作戦など無視し、真っ直ぐに敵軍に突っ込んで行くだけの戦法。無謀としか言えない暴挙。だが、敵の只中で両手にそれぞれ持つ剣を振るう彼を止められる者は、誰一人としていなかった。
 神らしかぬ悪趣味だと他の神々から罵られようと、彼は戦が好きだった――だが同時に、一方的な戦に飽いてもいた。それゆえ、余計に無謀な真似をし、自ら己にハンデを課すこともあったが、結果は変らなかった。
 だが、この日。とうとう現れた。彼を愉しませてくれる者が。
 自分とは正反対の青い髪を持ち、自分とは正反対のオーラを纏わり付かせ、自分と同様の輝きを眼に宿す女――それは即ち、狂気。
「………また………会えっかな………」
 霞んでゆく視界の中、彼は自分のもげそうな右腕を見た。神という身であるために、傷は放っておいてもある程度治る。この傷も、しっかり処置を施せば再びくっつくだろう。だが、おそらく元のようには動かせまい。それならそれで、利き手を変えればいい。再び、この傷を作ったあの女に見えた時のために。
 慌てたようにいくつもの足音が近づいてくるのが地面の振動でわかる。どうやら、回収してもらえるらしい。それならば、このまま全身に纏いつく睡魔に身を任せても大丈夫だろうか?
 その問いかけに自分で答える間もなく、彼は意識を手放していた。

******

 ――天界に戻ると、見知った神が彼を出迎えた。細い面に感情を表さないまま、
「とうとう負けたか。御高位の方がたが、嫌味の一つでも言ってやろうと待ち構えておられるぞ」
「あんたも、その高位の連中の一人じゃねぇのか?」
 彼が笑って言うと、その神は軽く肩を竦めてみせた。
「嫌味が通じない相手に嫌味を言うほど無駄なこともそうそうないだろう?」
 「そりゃそうだ」とケラケラ笑う彼に、「そらみろ」とばかりに大仰な溜め息を吐く。
 優美な顔に似合ったきらびやかな、だが悪趣味ではない服装をしているその神は、戦時以外では洒落っ気の欠片もない格好をしている彼のことを見る度に、やれ身なりをしっかりしろだの、やれ素地は悪くないのに勿体ないだのと口うるさい。しかし、神々の中で彼とまともに口をきこうとする者は、この神の他には片手で数えるほどしかいなかった。
 地上では魔神とも呼ばれるその神は、布で右腕を縛りつけている彼をちらりと見ると僅かに形の良い細い眉を寄せた。
「……どんな奴だったんだ?」
 友人たる神の言葉に、彼はしごく軽い口調で、
「んー、青かったな」
「は………?」
「なんか、すげぇ青かった。あんた知ってるか? 青って、すげぇ熱い色なんだ。今までは、そんなこと思ったこともなかったけど………あいつ見てて、わかった」
 そう言った彼は笑顔だった。ただし、肉食獣が狩りの前に浮かべるような獰猛さを含んだそれを、笑顔と呼ぶならの話ではあるが。
 口の端はまるで引き攣るようにニヤリと持ち上がっている。しかし、濃い緑色のその瞳は、ただギラギラと輝いていた。
「…………まぁ、良い。とにかく、さっさと行って来い。最近では、お前関係の苦情が、何故か私のところに来るんだ。それと、その見苦しい格好もどうにかしろ」
「へいへい……全く、あっちゃんは口煩いなぁ」
「ほざけ」
 へらへらと笑いながら、彼は友人に手を軽く振り歩いて行く。その顔に、先程まで浮かんでいたような狂暴さはなかった。ただ、その右腕に巻かれた包帯に滲む赤が、浮かれた熱をいまだ孕んでいるように鮮やかだった。
 それまで向かい合っていた神の隣を通り過ぎた、その直後。
「―――ツィーダル。……お前………」
 不意に呼び止められ、「うん?」と彼――ツィーダル神は振り返った。その視界に、珍しく戸惑ったような表情の友人が収まる。
「お前……その髪はどうしたんだ?」
 神々の中でも気性の荒い戦神たち。たびたび戯れに戦神同士での決闘を始める彼らは、仲間でもある決闘相手を傷つけぬために、勝利の証として相手の髪を切り取ることを好んでしていた。従って、長い髪は彼らの間ではそれだけ長い間不敗であるという証であり、誇りでもあった。
 もちろん、戦神の一員であり、またその中の誰よりも好んで剣を振るうツィーダル神もその慣習に倣い。そして負けを知らぬがゆえに長い髪を頭の上で一つに括り、戦場ではまるで舞い踊る炎ようにその緋色の髪を靡かせていたのだが。
「あぁ……これか。切った」
 あっけらかんと言う彼の髪は、今は見る影もなくばっさりと切り落とされていた。
「自分で、さっき切ったんだ」
「どうしてそんなことを……」
 己の強さを示すための髪――他の神々が思う以上に、戦神たちにとって重要な意味を持つはずのそれを。どうして。
 眉を寄せる友人に対し、彼はあっけらかんと「決まってるじゃねぇか」と笑って答えた。
「――他のどんなヤツに勝っても。あいつに勝たなきゃ、意味ねぇんだよ」

 そして、時は経ち―――

 人間達の住む世界。そこに位置する大陸のうちの一つ「ウィンクルム」に、彼はいた。
 薄い桃色の上着に鈍い黄金色をした鎧を纏い、腰には二振りの剣を佩き、風に吹かれ揺れる肩ほどまでの髪は明るい赤色を呈している。――しかしそれらは、今は荒野の風に吹かれ、埃に塗れ薄汚れていた。
 どっかりと腰を降ろした後ろには、ほどほど高い崖があった。軽く周囲を見回す限り、他に人の姿はない。
 古ぼけた包帯の巻かれた右手で彼は自分の頭の後ろをさすり、小さくうめいた。
 そしてぼんやりとした様子で、口を開く。
「俺、なんでこんな所にいるんだったかな……」
 思い出そうとすると、頭がズキりと痛んだ。眉を寄せ、後頭部から手を離すと、触っていたとき以上に痛むような気さえする。
 思い出せないのは、まぁ、適当に歩いてりゃなんとかなんだろう。――そう思い、痛みを振り切って立ち上がりかけ、ふと。ようやく気がついたように、再び疑問を口にする。それは、いたって気楽な口調ではあったが――
「………てか、そもそも、俺って………誰だ?」
 風が一陣吹きぬける。だが、それが問いに答えてくれるわけでもなく。
 「あー痛ぇ」と暢気な声だけが、その場に小さく響いた。

 赤い、燃えるような髪をした戦神ツィーダル。
 穢れた神と他の神々から忌諱され、一度剣を振るえばその剣の届くところにある魔物たちを打ち滅ぼすと恐れられるその神は。
 主命のために人間界に降り立った直後、崖から足を踏み外し、その記憶を失った。

終わり無き冒険へ!