Novel:14 『闇を焦がしてなお蒼く』8/9

 雨音が強くなる。
 本格的な嵐が近づいている。
 船体を揺らす波が少し強くなった。
「おねーさん……、あの、何だかしらねーけど、船内行かないか? こんなところじゃ風邪ひくし」
 戸惑った声が後ろからかかる。
 降り注ぐ雨が恐ろしく冷たい。
 自分の体温を極限まで奪う。
「……くっ……ふふふ」
「お、お姉さん?」
「ふふふ……あははは……!」
 突如笑い始めたメレディスに驚いた様子で少女が固まったのが分かった。同様に、甲板にいる人間の殆どが彼女を奇異のものを見るように凝視した。
「……何、笑ってんだ?」
 赤が問う。
 これが笑わずにいられるだろうか。
 男は何も覚えていない。
 自分は焦がされるほどこの男のことを想っていたというのに。
「本当に何も覚えていないのね」
「だからそう言ってるだろー? これでも苦労してんだぜー、うん、色々と」
「……大丈夫よ」
「ん? 何がだ?」
「記憶が戻らなくても大丈夫」
 メレディスは静かに手を空へ向ける。
 手に触れた雨粒が剣の形を帯びる。
 そして、彼女は微笑んだ。
 居合わせた者の殆どがその笑みに背筋を凍らせる、凄艶な微笑みを。
「貴方のこと、ちゃんと殺してあげるから」
 彼女が動くと同時に幾人かが身構えたのが分かった。
 だがそれよりも彼女が深紅に到達する方が早い。
 メレディスは深紅に向かって剣を振り上げた。
 刹那。
「!」
 反射的に彼女は飛んだ。
 孤を描くように舞上がり、そして甲板の上に着地する。
 揺れる船上で、深紅が剣を構えている。
 じんと手のひらに感じる違和感は先刻の衝撃だろう。打ち込んで、彼はそれを受け止め、反撃をしたのだ。
 ちり、と頭の後ろが焦がされたような感覚を覚える。
 彼なら。
 前の彼なら、今の一瞬でメレディスに傷を負わせる事が出来たのだろう。記憶と同時に神の力を失ったのだろうか。
 彼からは以前のような底の知れない魔力を感じない。惑わされて落とされてしまいそうな蠱惑的な気配が。
 それなのに。
「ゴンベ!」
 誰かが叫ぶ。
 彼の仲間だろうか。
 魔法を使うらしい人間と、剣を使うらしい人間。
 見た覚えがある気がしたが、彼女の目は自然と赤ばかりを見てしまう。
 探し求めていた。
 あの時よりも弱くなっていて失望した。
 それなのに。
「思い出しなさい、ツィーダル。貴方が何か。そして、私が何か」
 失望しているはずなのに、心の奥が期待している。
 記憶を失おうが、力を失おうが、この男は必ず自分に応える。
「貴方は、そんなものではないはずよ」
 魔法使いが魔法を放った。
 メレディスはそれを真上に弾き飛ばす。
 簡単に弾かれた事に驚いた魔法使いの後ろから剣を持った人間が飛び出した。彼女はとんと後ろに下がり、同時に真逆から振り下ろされていた武器を見ずに止めた。
 交わされた事を驚いた剣士が、それでもなおメレディスに斬りかかる。
「……あなた達には無理よ、私は殺せない」
「っ!」
 瞬間、メレディスと剣士の間に生まれた水泡が、メレディスと武器を交えていた者との間に生まれていた水泡が、その身体を弾き飛ばす。
 メレディスは優しく微笑む。
「私はメレディスよ。覚えておいて。それが………水に棲む化け物の名前」
 ひゅん、剣が唸り、誰かの投げた武器をたたき落とす。
 彼女は甲板を蹴り、赤との間合いを詰める。赤もまた彼女との間合いを一気に詰めてくる。
 音を立てて二人の武器が合わさった。
 すう、と彼の呼吸の音が聞こえる。
 間近にある緑の瞳が、楽しそうに笑った。
「……メレディス……」
 息を吐くくらいの掠れ声で深紅が呟いた。
 ぞくりとする。
 背の辺りが冷やされたように何かが走り抜ける。寒気のような感覚。けれど、これは怯えなどではない。
 興奮だ。
 この男の声が、自分の名を呟いたことに興奮した。吐息に、むしろ問い掛けに近いほどの声だが、彼が自分を呼んだことに激しい熱を感じる。
 斬り込んで、弾き飛ばされ、逆に斬り込まれる。
 彼はまるで昔の感覚を思い出そうとしているようだった。斬り合うたびに、打ち込む程に彼の攻撃が少しずつ強くなっているのを感じる。
「ツィーダル」
 彼女は愛おしそうに彼を呼んだ。
 自分が何よりも望む存在。
 彼が欲しい。
 彼だけが他の誰とも違う。自分を絶望させない存在。一度失望させても、次には倍以上のものを返してくれる男。
「まだよ」
 こんなものじゃない。
 彼の力はこんあものではない。
「まだ足りないわ! 貴方の力、こんなものじゃないはずよ!」
 叫んで斬り込む。
「!」
 攻撃が来るのが分かって深紅が構える。
 がくん、と船が大きく揺らされたのはその時だった。
 いつの間にか大きくなった波が船体を揺らし、人々の身体の平衡感覚を失わせる。声を上げてその場に何人かが蹲り、近くにあった支えにしがみつく。
 悲鳴と共に船外に投げ出される少女の姿を見たのはまさにその時だった。
 誰かが少女に向かって何かを叫んだ。

終わり無き冒険へ!