Novel:11 『Lily of the Incas』1/4

 大輪の薔薇。
 凍るように真っ青なそれ――自然界には存在しないそれが一面に咲き誇る花畑に、一人佇む。見渡す限り、四方に続く花畑。薄靄がかかり、今一つ見通しがきかないが、はるか遠くに、城か何か……大きな建物が見えた。妙に惹かれるものを感じながら、じっとその建物を見つめる。瞬きすら、せずに。ただ、ただ、焦がれるように。
 ……と。唐突に、目の前に一人、男が現われた。男の顔は、何故か見ることができなかった。見えているはずなのに……確かに、すぐ目の前にあるはずなのに。どんな顔なのか、判別できない。その男は、一振りの剣を持っていた。そしてそれを、大きく振り上げる。
 不思議と、怖くはなかった。ただ、何故だかむしょうに、淋しかった。その淋しさに促されるままに、剣から、再び建物へと視線を移す。せめて、目に焼き付けようと。
 視界の端で、剣が振り下ろされる。――凍れる薔薇が、舞い散った。


Lily of the Incas


「―――っ」
 喉下から何かが込み上げてくるような感覚に、スズメは目を覚ました。肩が、小さく上下している。夜着も、しっとりと汗に濡れているようだった。目に溜まった涙に、天井の木目が僅かに歪む。スズメはぎゅっと目を瞑り――小さく、だが深く息を吐いた。自然と、手が口を覆う。
 幼い頃から、繰り返し見る夢――その時々によって、細かい部分は変わっているが、大まかな部分はいつも同じだ。青い薔薇。城のような建物。剣を持つ男。そして――焦がれるような想い。
 スズメは口を覆っていた手をゆっくりと離し、今度は胸元に持っていく。鼓動が常より早い――不意に口元が歪んだが、慌てて引き結ぶ。そうしなければ、何かを叫んでしまいそうだった。あの夢を見た後はいつもそうだ――叫びたいような、泣きたいような、そんな不安定な心地に襲われる。幼い頃ならば、育ててくれた老婆に慰めてもらえたが、今は独り。誰にも、頼ることなどできない。自分は、もう幼児ではないのだ。
 カーテンから、薄っすらと白い光が差し込んでくる。もう直ぐ夜が明けきるのか。ゆっくりと目を瞑るが、そうした途端に目蓋の裏にあの冷たい青が浮んできた。とても寝直すことはできなさそうだ――そう諦めると、スズメはそっと、身体を起こした。

***

 パイ生地を石釜に入れ、スズメが居間に戻ると、“機嫌がいいね”と声を掛けられた。
“今朝は、具合がわるそうだったのに。どうしたのさ、そんなパイまで焼いちゃって”
 スズメの家は、森の奥深くにある。町から離れひっそりと暮らしている家には、今は客人もなく、スズメ一人しかいない。だがスズメは頓着した素振りも見せずに、誰もいない空間に向かって、《そうかしら?》と音にならない声で嘯いてみせた。石造りの、古い家。家の中にあるのは、最低限の家具と――大量の植物ばかり。
“そうだよ”
 と、誰もいない空間から聞こえる声は、どこかふてくされたように言い切った。
“もう時期の過ぎたエビヅルまで出しちゃってさ。あぁ――言い訳なんていいよ。主がそれを焼くのは、大抵あの男が来るときなんだから”
 その声の言葉に、スズメはクスクスと笑った。そして同時に、傍から見ててもわかる程に、自分が「あの男」をもてなすのに力を入れていること――同時に、それを楽しんでいるのだということを自覚させられる。
《でも……本当に、それだけじゃないのよ? 今年はいつもよりもエビヅルを採りすぎちゃったから……使いきってしまわないと》
“――じゃあ、採りすぎたのはどうしてなんだろうね?”
 今度はからかうような響きで訊ねてくる声に、スズメは苦笑してみせた。それから、確かに最近はエビヅルばかりパイに使っていると思い直す。どうしようか ――苔桃で作ったジャムも余っているし、今日はそれを使ってもいいかもしれない。第一、エビヅルのパイを作ったところで、声が言うところの「あの男」が来るとは限らないのだ。そう――なんとなく、今日は誰かがスズメを訪ねて来てくれるような予感がするというだけで………。「あの男」が、唯一気に入った素振りを見せたパイ。作って、もし待ち人が来なければ、逆にむなしくなってしまいそうだ。
 ――それでも。ここで作るのを止めてしまうと、かえって「あの男」が来なくなってしまいそうな気がして。スズメは、当初の予定のまま、パイを焼き続けることにした。

***

 庭にある草木や作物に水を巻き、次いで部屋の中の植物にも水を遣り終えた頃には、台所から良い香が漂ってきていた。もうそろそろいいかしら、と窯の中のパイを取り出すと、丁度良い焦げ目を付けながら、パイが焼きあがっていた。ニコリと笑んでそれを取り出し、皿に移す。甘い香が鼻孔をくすぐり、大して旺盛でもないスズメの食欲を刺激する。
(あとは、菜園からなにかとってきてサラダにして……お肉も、この間もらったものが……)
 以前に比べれば、スズメの家も賑やかなことが多くなった。これまでも時折迷い人を招くことはあったが、最近では明るい冒険者の一行や、親切な旅人たちなど、どうやら縁の深い者たちが立ち寄ってくれるようになった。先日は鳥使いの少女から思わぬプレゼントをもらい驚いたが、そんなサプライズも、今までの静かな生活では考えられないものだった。
 だからだろうか――近頃は昔に比べて、閑寂なこの家が、やけに広く感じる。植物に水を遣り、食べる者がいるかもわからない菓子を焼き、帰るかもわからない者を待つ――そんな生活が、時々色褪せて見える。そしてその度に、それは贅沢なことなのだと、慌てて頭を振って考えを打ち消す。自分の元に帰ってきてくれる人を待つことができる……それだけでも、充分幸せなことではないか。そう自分に言い聞かせれば、なるほど、確かにそんな気がしてきて、再び元の生活に戻ることができる。そしてそれこそが、今の自分の存在理由なのだと思い知るのだ。いつ帰るのか……そもそも、本当に帰って来るのかさえわからない待ち人を、待ち続けることが。
 そんなスズメに一つの楽しみを与えてくれたのが、植物と同じ髪の色をした「あの男」だった。まだ、スズメの家が今ほど賑やかになることが多くなる前。ふらりと森に入ってきたあの男は、それ以降も、度々スズメの家を訪ねてくれるようになった。初めは無口なのかと思ったが、会話をしているうちにそうでもないことがわかった。スズメが勝手に付けたあだ名に文句を言うこともなく、また、スズメが出した料理にも好き嫌いを言うことなく平らげてくれる。唯一、エビヅルのパイに関しては、「悪くなかった」という評価をもらったが。お陰で、「あの男」が来る度に、スズメはエビヅルをトッピングしたパイを作っている。時期が過ぎたと指摘される、今でも。そんな己に、自分でも笑ってしまう。
 そう、実際に苦笑を零しそうになった時だった。――入り口の扉が、勢いよく叩かれる。瞬間、スズメはドキリとした。本当に、「あの男」が来たのだろうか――だが、それにしては様子がおかしい。もしや、何かあったのだろうか……?


>>続く

終わり無き冒険へ!