Novel:10 『Petunia』



 ―――お前が魔女か?

 そう、スズメの喉下に剣を突きつけながら、その男は訊いてきた。どこか、うろたえるような色を含んだ目をして。
 自分は、それに何と返事をしただろうか? 首を小さく横に振ったか。口を動かし、違うと伝えたか。それとも、肯定したのだったろうか――どれも違ったような気がする。
 その人はスズメを町人たちから隠すように森へと連れて行くと、森の中ですっかり放棄されていた小屋の中へと入れた。そして、次の日、彼の故郷で行われていた方法で仮祝言を挙げると、さっさと小屋を出て行ってしまった。自分が帰って来るのを待つようにだけ、言い残して。
 何故自分は、あの時それを是としたのだったか。会って一日しか経たない彼と、仮のものとは言え、祝言まで挙げて。
そして――今もまだ、待っている。


Petunia


 小さな水の粒子が、庭中に降りかかる。庭には、トリカブトやハシリドコロ、オトギリソウ、ヤブコウジ、アスター……様々な種類の毒草、薬草、鑑賞植物等が、節操なく植えられていた。少し離れた所には、エンダイブやトレビス、リーキなどが植えられた菜園もある。それらに水を遣りながら、スズメはぼんやりと考えを巡らせる。
 そろそろ、手慰みに作った果実酒や菓子がなくなりそうだ。めったに家を訪れてくる者はいないが、迷い込んだ人々にそれらを振舞うのは、スズメのささやかな楽しみだった。もっとも、肝試し気分でやってきた町の子供たちに持たせたクッキー類が、その後どんな運命を辿るか、想像ができないわけでもなかったが ――。
 そろそろ、新しいものを作ろうか。殆どを自分で消化するはめになることは目に見えていたが、それでも作るのを止めてしまうと、もう誰も着てくれなくなってしまうような。そんな気さえする。
 ジョウロの水がなくなる。すっかり潤った植物園は、傾きかけた日の光に、きらきらと反射していた。
***
 久しぶりに、少しだけ小屋から離れて、森の中を歩く。スズメが元々住んでいた町の住人たちは、この森を恐れていたが、彼女にとって森は優しく、暖かな場所だった。植物たちは彼女を魔女と糾弾することはなく、モンスターたちもそっと静かに場所を開けていく。
(確か……前に来た時、こっちの方に苔桃の実がなっていたはずだけど……)
 酸っぱくも甘いあの実を使って、ケーキを作ろう。赤く可愛らしい実。きっと、見た目にも綺麗なケーキが出来るだろう。そして、ケーキが駄目になる前に誰かが来たら、それを振舞いたい。それを考えると、気分が明るくなるような気がした。
 しばらく行くと、苔桃が自生している場所に着く。これは森の恵みだ――全ては採らず、ある程度残し、また来年、同じように実をつけられるようにしなければ。
 植物に礼を言いながら、実を最低限必要なだけ採っていると、どこかでガサリと草を踏み分ける音がした。動物? それともモンスター? どちらにしても、スズメにとって害はない。だが、足音は一定の間隔で近付いて来る。
(動物じゃ、ない……?)
“にんげんがくる”
 そう、植物たちが囁くように言った。
“ふしぎなめをした、にんげんがくる”
 不思議な目? それは、どういうことだろうか。
ワンピースの裾を持ち上げ、窪んだ部分に採った苔桃の実を入れて、スズメは立ち上がった。そして、足音のする方へと目を凝らす。
姿を現したのは――褐色の肌をした、大きな男だった。筋肉が発達した上半身は、布で隠されることなく、しかし顔の下半分には、黒いマスクのようなものをしている。そして――その、瞳は。
(まぁ……)
 植物たちが、不思議な目と言うわけだ。確かに、男の目は、スズメの知っているどんな人間とも違う目をしていた。吊りあがった、薄い金色。どこか、動物を髣髴とさせる。それも、普通の動物ではない……?
次いで、寒くないだろうかと心配になる。温かい地方とは言え、最近は夕暮れにもなると肌寒くなってきた。男の格好で外にいるのは、少々辛いのではないだろうか?
《貴方、迷ってしまったの?》
 スズメはそう言ってから――いや、言ったつもりになってから、ふと、自分が声を出せないことを思い出した。普段なら、迷い人とは筆談や、ボディーランゲージで会話を成り立たせるのだが、今ここに紙はないし、両手も塞がっている。さて、どうしたものだろうか……。
「……別に、迷ったわけじゃない」
 低い、声が。唐突に、聞こえた。スズメは何処から聞こえてきた声だろうと辺りを見回した。植物だろうか? しかし、今の声は、普段植物たちがスズメに話しかけてくる声とは、響きが違った。彼らの声は、鼓膜を打つことなく、直接頭に響いてくる。
(もしかして……)
 スズメは、少し驚いて目の前の男を見た。男もまた、スズメを見ていた。そして、
「単に、森があったから、入ってみただけだ。迷ったわけじゃない。」
 声がするたびに、男の喉が動く。ということは、やはりこの男が喋っているのだ。先程の――音にならなかったはずのスズメの問いかけに対して。
《……貴方。私の言っていること、わかるの……?》
 先程と同じく、口だけを動かすような形で、男に訊く。すると男は、当たり前のことであるのように「あぁ」と頷いた。
(まぁ……)
 なんだか、嬉しくなる。こうしてスズメの言いたいことをわかってくれたのは、スズメを育ててくれた老婆以来だ。
《なんて素敵なのかしら。ねぇ、貴方。どうか家に寄っていって? 今から町まで行くんじゃ、その前に暗くなってしまうわ》
 夜の森は危険だ――森は、昼と夜では顔を変える。慣れない者にとっては、命の危険さえある。
《ね? いいでしょう?》
 にっこりと笑いかけると、表情に大きな変化はないながらも、男の顔に戸惑ったような色が浮んだ。短く刈られた髪が、まるで植物のようだと、場違いにスズメは思った。
「……あんたは、この目を見てもなにも思わないのか?」
 男からの初めての問いかけに、スズメはきょとんとした。
《まぁ……何も思わないわけ、ないじゃない》
 スズメがそう言うと、男は得たりというように頷いた。だが、それでもどこか戸惑ったような様子は残る。そんな男に、スズメは笑顔で言葉を続けた。
《とっても可愛らしい、綺麗な目よ》
***
《ハイ、寒かったでしょう? ハーブティーだけど、いかが?》
 テーブルの上に、ティーカップを載せる。ふわりと白く柔らかな湯気が、そこから立ち昇った。それを、男はどこか眩しげな目で眺めている。
《甘いものは大丈夫かしら? 嫌い?》
 確かパイの残りがまだあったはず、と思いながら声をかけると、「別に……」という答が返ってくる。
「好きとか嫌いとか、よくわからない」
《あら。好き嫌いがないの? 良い子ね》
 スズメがそう言うと、男はまた若干驚いたような色を顔に乗せた。それをなんだか微笑ましく思いながら、スズメはエビヅルをトッピングしたパイを二切れ、皿に載せて男の前に差し出した。そしてもう一切れ、自分用に皿に載せる。
《どうぞ食べて? 甘いものは、心が休まるわ》
 男は、それでもフォークを手に取ろうとしない。その様子に、スズメは小さく首を傾げた。
《どうかした?》
「……あんた、この目見て、可愛いとか言ったな」
 それがどうかしたのだろうかと思いながら、《えぇ。そうね》と頷く。
《だって、本当に可愛いもの》
「……趣味悪いな、あんた」
 そうだろうか? 本当に、綺麗で可愛らしい目だと思ったのだが。それとも、可愛いという言葉は、男にとって不快だっただろうか? 目をパチクリとさせるスズメに、男は淡々とした調子で言葉を続けた。
「俺の目は、狂った犬の目だ。女も子供も、見ると泣くか逃げるかする。もう慣れたから、どうでもいいが」
《まぁ……そうなの》
 こんなに可愛いのに。そう、心から思うのだが。
そんなスズメの胸中を知らずか、「当然だろう」と男が言う。
「狂った犬の目なんて、見ていて気持ちのいいもんじゃないからな」
 そうなのだろうか? スズメは、改めて男の目を見た。
 ――確かに、変わった目ではあるだろう。そしてその目に垣間見える男の胸中もまた、普通の人々とは違うかもしれない。それは孤独か。倦怠感か。それとも全てに対する諦観か。だが、それのどれとも、微妙に違うような気がする。しかし、そう言い切れる程、スズメはまだ男のことをよく知っているわけでもなんでもないのだ。もしかして、彼の目を見て泣く人々は、この目に含まれた哀しさの色に、泣いてしまうのだろうか?
《……私は。狂った犬を見たことがないから、それが本当はどんな目かはわからないけど………貴方の目がそれと同じだって言うなら、私きっと、狂った犬の目も、好きになれると思うわ》
 瞳の中に見て取れる淋しさは愛おしくも可愛らしく、そこに映る諦観は美しくもある。心惹かれるのは、男にどこか自分と、同じ匂いがするからだろうか。大衆に忌諱される、マイノリティーの香。
「………」
 スズメの言葉に、男は一瞬黙り込んだ。スズメも、言葉を待つために黙る――が。その場に降る沈黙は、決して居心地の悪いものではなかった。たっぷり間を置いて、男が変わらぬ平坦な調子で口を開いた。
「あんた、やっぱり趣味悪いな」
***
 男は食べ物にも、お茶にも、なかなか口をつけようとしなかった。口元は、未だにマスクで覆われたまま。茶は、湯気を吐くのを忘れ、すっかり冷めてしまっている。
(淹れなおした方が良いかしら……)
 それとも、別の飲み物の方が良いのだろうか? 好き嫌いはないと言ってはいたが、自分に気を使っているだけなのかもしれない。試しに、果実酒の残りでも持ってこようか。
《少し、失礼するわね》
 スズメがそう断ると、男はこくりと頷いた。それを確認してから、台所へと向かう。
 ――台所には採れた野菜に果物、それに薬草の束ねたものなどが積んである。それらを除けて、床下の貯蔵庫を見ると、果実酒のボトルがまだ数本あった。どれが一番、彼の口にあうだろうか。悩んだ末、それら全てを腕に抱えて居間に戻る。
 居間に戻ると、ちょっとした変化があった。後姿を見る限り、男がマスクを下ろして、パイを食べている。
(あら……食べてくれてるのね)
 嬉しくなって、もう一歩踏み出す。古びた床が、ギュッと小さな音を立てた。――途端、男の肩が強張り、マスクを戻そうとする。が、その前に、スズメの視界にマスクを外した男の顔が入った。
《まぁ……》
 男の口は裂けていた――まるで、それこそ犬のように。犬歯も発達しているため、ますますそう見える。
 男はスズメが見ていることに気がつくと、黙ったままスズメを見返した。まるで、何かを待っているように。例えば――スズメが、叫んで失神するのを。あるいは、泣きながら逃げ出すのを。
《………あの》
 奇妙な緊張感が張り詰めた中、スズメが口を動かした。
「……あぁ」
 小さく頷く男の前に、スズメは果実酒のボトルを並べてみせる。
《何本か、持って来たのだけど。どれが好きかしら?》
「……………」
 男の表情は変わらない。だが、男がどこか訝しげな様子であるのを、スズメは感じた。それに、スズメは首を傾げてみせる。
《果実酒、お嫌い?》
「…………………………いや。嫌いとか、さっきも言ったがよくわからない」
たっぷりと間を置いたあとようやくそう答え、更に「好きっていうのもな」と小さく付け加えて言う男。その目は訝しげなままだ。
《どうか、したかしら?》
「……あんたは。この口を見ても、何も言わないんだな。普通の女は泣いて逃げる」
 実際、そういう場面を何度も見てきたのだろう。男の声は、やはりどこまでも淡々としていた。何でもない事実を告げるように。当たり前のことであるように。
――魔女――出て行け――町に災厄を――化け物――いなくなれ―――幾つもの罵声が重なって、不意に耳に蘇る。小さい頃から投げつけられた、怨嗟の声。「仕方がないことなの」――労わるように頭を撫でてくる人に言った、幼い日の自分の声が、目の前の男の声と何故だか重なった。
男の目を見ながら、スズメはにこりと笑った。
《可愛いお口だと思うわ。貴方のその目といっしょで。とても素敵》 目の前の男が笑っていないことくらい、スズメにだってわかった。だが、それでも男はその口のために笑っているように見える。笑顔は貴重だ――心からの笑顔には、それだけで価値がある。笑顔に見える男の口は、それ故に愛おしいし、それでなくとも――むしろこれこそが最大の理由であるようにも思われたが―― 単純に可愛らしくスズメには感じられた。スズメの好きな動物たちと同じ口だからかもしれない。
《私を怖がらせちゃいけないと思って、私の前ではマスクをはずせなかったのね? 優しい子。でも、そんな可愛らしいお口なんだから、隠さなくて大丈夫よ?》
「………本当に趣味悪いな、あんた」
 男は、それ以外に言葉が見つからないといった風だ。それだけ、男には想定外のことだったのかもしれない。
「俺を見ると、たいてい子供は泣くし、化け物と言われることもよくある」
《まぁ。それなら私も一緒よ? 小さい子はしょっちゅう私の家に肝試しに来るし、石を投げつけられることもあるわ》
 「魔女」だから――スズメは、自分を魔女だと自称したことはなかったが、町の人間にとってスズメは紛れもなく魔女で、町に害悪をもたらす可能性のある存在なのだ。早急に排除したいくらいに。だが、スズメにはここを離れるつもりはない。
「……趣味悪いな、そいつらも」
 男の言葉がなんだか微笑ましく、スズメはにこりと笑った。
《貴方を化け物と呼ぶ人たちの目に、貴方の口や目が不思議なものだと映ったみたいに。私に石を投げつけてくる人たちの目にも、私が不思議なものだと映っているんだと思うわ》
 誰の目にも、世界は同じように映らないのだから。そう、心の中で呟く。自分を拾い、育てた老婆がよく言っていた言葉だ。
“だからこそ、本当なら世界は誰の目にも美しいんだよ、スズメ――。悲しいくらいに、誰もが忘れてしまっているけれど。”
 あの日、見知らぬ男にここにいるよう言われた時。町から離れ、決してスズメを罵倒することなどない優しい植物たちだけを自分の世界の住人にしたら、自分の世界は美しくなるだろうかと思った。だがそれは、老婆の言っていた世界の美しさとは違うような気もした。そして今では、その「違い」がより顕著にわかるように思える。
《……私は、スズメっていうの。貴方は……?》
 スズメの問いかけに、男はあまり悩んだ様子なく口を開いた。
「リングネームは狂犬だったけど、別に気に入ってるわけじゃない。本名に愛着もないしあまりいい思いもないから、好きに呼べばいい」
 好きに呼べばいいと言われて、スズメは小さく首を傾げた。確かに、狂犬という言葉は呼んだ方も呼ばれた方も、あまりよい感じはしないだろう。では、どうしたものか……。
 ふと、先程も見た男の髪に、もう一度目がいく。
《……じゃあ、ミドリさんって呼んでいいかしら?》
「頭が緑色だからか? 単純だな。別に構わないが」
 了解をもらい、なんとなく嬉しくなる。スズメにとって、緑は植物の色。ひいては、命の色だ。
《――じゃあ、ミドリさん。改めて飲み物、何が良いかしら? もう一度お茶を淹れなおす? それとも、この果実酒の中から、どれか好きなのを選ぶ?》
「……どれでもいい。それに――これを飲まないのは、別に嫌だからとかじゃない。この口だと横から零れて、飲み物が飲みづらいんだ。」
《まぁ……それは大変》
 飲み物が思うように飲めないというのは、深刻なことだ。少し考えてから、《じゃぁ……》とスズメは提案した。
《飲んでいる間、私が横から押さえるわ。それで、飲めるかしら?》
 スズメにミドリと呼ばれた男は、その言葉に呆気に取られたようにスズメを見た。
「それだと、余計に飲みづらいだろ」
 言われ、スズメはきょとんと“ミドリ”を見返し。
《まあぁ………本当ね》
 そう言って、スズメはクスクス笑った。
 ―――結局、スズメが台所からストローを持ってき、それを“ミドリ”に渡すことになった。
 ストローは、少なくともスズメが“ミドリ”の口を横から押さえるよりは役に立ったらしい。冷めた茶を、“ミドリ”はストローで完飲した。そしてそれを、スズメは正面に座ってにこにこと眺めていた。
 “ミドリ”の席は、やはり口のせいで食べづらいのか、あちこちに食べかすやらが飛んでいる。だがそれも、“ミドリ”がスズメの出したものを全て片付けてくれたからだと思うと、全く気にならず、却って愛おしくさえ思われた。
 「狂犬」と呼ばれていた彼。「魔女」と恐れられている自分。どちらも、人間の範疇に交ぜてもらえない逸れ者。そういう意味で、彼と自分は同類だ。
 ――あの日。「お前が魔女か」と聞かれ、自分はなんと返事をしたか。あの時の返事は未だに思い出せないが、今の自分ならばこう答えるだろう。

―――私は、人間よ。

 町の人間たちと同じように。自分に剣をつきつけてきた男と同じように。そして、「狂犬」と揶揄されていた彼もまた、同じように。きっと、迫害者たちはそれを認めたがらないだろうが。
 だがそれでも。少なくとも、自分が美しいと信じる世界では、それが真実だ。
《今度、ストローもっと用意しておくわね。ストローで飲めそうな飲み物も》
 スズメがそう言うと、“ミドリ”が訝しげな色を、無表情な面に浮かべた。「今度」――それは、つまり。
 “ミドリ”の視線に、スズメはにっこりと微笑み。すっかり冷め切った自分のハーブティーを、小さく傾けた。



スズメ・狂犬
文:穐亨

終わり無き冒険へ!