Novel:11 『Lily of the Incas』4/4

“……主”
 小さな、何処か遠慮がちな声が、スズメを呼ぶ――が。スズメは、テーブルに顔を伏したまま、上げようとしなかった。沈黙ばかりが、その場に降る。
 夜の帳が下ろされた森――その中にある小さな小屋は、明かりが灯されることもなく、闇にすっかり溶け込んでいた。
“主……夜だよ………もう、暗いよ? 明かり、点けなきゃ………”
 マダラがそう話しかけてくるが、やはりスズメは答えない。台所にはパイが、家を出て行った時のままに放置してあり、すっかり冷えてしまっている。どうせ誰も食べることのないものだと思えば、そんなことすら、どうでも良かった。目を瞑り、このまま動かなければ、自分の存在さえ、消えてしまうような気さえして。
“主……”
《――マダラさんは、どうして、私のこと……主と呼ぶの……?》
 顔を伏せたまま、スズメが問う。それに、食虫植物はうろたえたように一瞬黙り込み。
“何故って……だって。主が、ぼくを育ててくれたから………”
 マダラの言葉に、スズメはふっ……と口だけで微笑んだ。《そう、よね……》と、呟き。再び、黙り込む。
 スズメのことを、主と呼んだ魔物。そして、森の中の植物たち。自分のことを守るという彼ら……いったい、どうしてなのか。自分は、人間だ。彼らの仲間なんかでは、決してない……自分は、人間なのだ………。人間でなければ、なんだというのだ。“魔女”と、スズメのことを罵倒する者達と。自分は、同じ人間なのだ……。もし、そうでなければ、自分は一体なんだと言うのだ?
“主……主………”
 “主”と、そう自分を呼ぶ声が煩わしくて、スズメはギュッと目を閉じた。今まで、そんなふうに何かを煩わしいと思ったことなんて、なかったのに。マダラは何も悪くない……そう頭ではわかっているのに、心がささくれてしまって。スズメは目だけでなく、耳も塞いだ。鼓膜を通して聞こえる声ではないとわかっているのに、そうせずにはいられなかった。
 主と自分を呼ぶ声が。木造りの扉を叩く音が。手と耳の隙間を流れていく空気の音が。全てが、煩わしい。
 ―――と。
(扉を叩く音……?)
 違和感を覚えて、手を耳から離す。意識を自分の外へと向けると、確かに、扉を誰かが叩く音がした。
“主……誰か来たよ………”
《えぇ……》
 そう、半ば無意識に答えながら立ち上がる。瞬間、ふらつくがなんとか姿勢を建て直し、そう大して遠くない扉まで歩く。
 ―― 一歩、二歩。
 夢見心地に地面を踏みしめる。頭の中で、静かな嵐が起きているように、無数の言葉達が無秩序に巡る。青い薔薇。城。剣を振り上げる男。魔物。夢。マダラさん。悲しさ。主。モミの木。淋しさ。姫。冷めたパイ。おばあさま。大切な姫。――大切な。
 ――三歩、四歩。
 頭の中は嵐なのに、どうしてか心はやけに静まりかえっていた。次第に、地面を踏みしめる足も、しっかりとしてくる。綿を踏むような感覚だったものが、ギシギシ鳴る床を踏みしめていることを実感できるようになる。
 ――五歩。
 扉の前まで来たスズメは、いつもの微笑を浮かべながら、扉を開けた。
《あら――ミドリさん。いらっしゃい》
 月光を背景に扉の前に立っていた男は、珍しく訝るような色を無表情な顔に浮かべて、スズメを見てくる。それを見返しながらふと、小さい頃老婆に読んでもらった本に出てくる狼男を、スズメは思い出した。
《……どうか、したかしら?》
「顔色が悪い。あんたこそ、どうかしたのか?」
 開口一番にそう訊ねる男に笑みを深くしながら、《そうかしら?》とスズメは首を傾げて見せた。
《光の加減で、そう見えるだけじゃない? 今夜の月は、青いから……》
 扉を大きく開け、部屋の中に男を招きながら、そう答える。男はスズメの顔をじっと見ていたが、やがて「そうか」と呟いて、視線を部屋の中へと移した。部屋の中へと足を踏み入れながら、「明かりも点けないのか?」と言う。
《えぇ……ちょっと、忘れちゃってて。今、点けるわ》
 暗い部屋の中で、果たして自分の唇の動きを相手が読み取れたかは定かではなかったが――兎にも角にもそう答えながら、スズメはランプに灯を点けた。ぽぅと、部屋の中が柔らかなオレンジ色の光に照らされる。
「ずいぶん、荒れているな」
 男の言う通り――部屋の中は椅子が倒れ、本が床に散らばり、どう贔屓目に見ても、男の言葉通り“荒れて”いた。
《今日は、ちょっと慌しかったの。それで……》
「――あんたは」
 言いかけるスズメの言葉を遮って、男が声を上げる。それに、スズメは口を動かすのを止めて、男を見た。穏やかな光に照らされた室内で光る、金色の瞳。彼が、人々から迫害される由縁。狂った犬の瞳なのだと、彼は言うが、スズメは狂った犬を見たことがないので、よくわからなかった。ただ、スズメにはその目が狂っているように見えたことなどなかったし、たとえ狂っていたとしても、なんて綺麗な色なのだろうと思っていたので、今更気になりもしない。ただ、こんなに綺麗なのに、どうしてこんなにも淋しい色を含んでいるのだろうと、そうも思う。
 外に降っている光と同じ色の瞳を持った男は、感情を見せない顔で、スズメを見下ろしながら、「あんたは」ともう一度呟いた。
「あんたは、何も言わないんだな」
《……そうかしら?》
 その答えが、目の前の男を傷つける可能性をちらりとも考えなかったわけではないが、気付けばそう、スズメは答えていた。
 いつもの微笑を浮かべたまま、
《それより、貴方の話が聞きたいわ。今度は、どんな人達と、どんなことをしてきたの? あ、貴方の好きなパイを焼いておいたのよ? ちょっと冷めちゃったかもしれないけど……今、持ってくるわ。待っててね?》
 そう、慌しく唇を動かして、パタパタと台所へと向かおうとする。
「おい――」
《……お願い》
 足を止めて、背を向けたまま、スズメは小さく呟いた。それが背後にいる男に見えたはずはなかったが、まるでそれに応えたように男が言葉を止める。スズメはくるりと振り返り。今度は男の顔をじっと見ながら、もう一度、お願いと口を動かした。
《貴方の話が、聞きたいの……》
 自分勝手な話だとわかってはいたが――スズメがそう懇願すると、男は珍しく言いよどむように、黒いマスクの下の口を上下させ。やがて、「わかった」と頷いた。
 それに、にっこりと微笑むと、スズメは再び身を翻して、跳ねるように台所へと駆けていった。

 昼間放置していった、冷えたパイに、ナイフを入れる。サク……と、軽い音を立てて、パイは綺麗に割れた。
――今年最後の、エビヅルのパイ。今度は、どんなものを作ろう? どんなものを作れば、あの人は喜んで、また食べにきてくれるだろうか?
 取り敢えず四等分したそれを、一切れ皿に載せ。少し考えてから、余ったうちの一切れをもう二等分してから、その片割れをもう一つの小皿によそった。
 これを持っていったら、あの人の話を聞こう。何があったのか。エビヅル以外に、食べたいものはないか。一緒にパイを食べながら、いっぱい、いっぱい教えてもらおう。そうすればきっと、このささくれた心が温かくなれるから。
 そして。
このパイを食べ終えたら、青い薔薇の咲く、花畑の話をしてみよう。青い薔薇だなんて。言ったら、笑われるかもしれないけれど。
 温かい紅茶を飲みながら、城のような建物の話もしてみようか。とても悲しい。とても淋しい。そんな夢に出てくる、あの建物の話を。あの人はいろいろな場所に出かけているから、もしかしたら、似たような場所を知っているかもしれない。そしたら、そこの話をしてもらえる。あの人の口から、あの城の話をしてもらえるなんて、なんて素敵な思い付きだろうか。
 ……それから。
 ゆっくり休んで、身体も、心も温まったら……少しだけ、昔の話をしてみようか。
意味なんて、ないかもしれない。でも、もしかしたら。ほんの少しだけでも、何かそこに、意味が見出せるかもしれない。
まだ幼くて、泣き方を覚えていた頃の話。毎日が新しくて、自分の生きる意味なんて問うことすら思い浮かばなかった、あの頃。怖いこともたくさんあったが、それ以上に、温かだった、あの日々のことを。
 自分自身と、向き合う――それが、どれ程に苦痛を伴う作業だとしても。
 スズメを、“魔女”と呼ぶ町の人間たちに、何年も帰ろうとしない待ち人も。過去に“姫”と呼び、現在“主”と呼ぶ植物や魔物たちも。温かな声で、“大切”だと言ってくれた老婆も。そして……スズメを名前で呼ぼうとしない、あの男も。
 その、全てが愛おしいから。その感情を嘘にしないためにも、そのどれからも、逃げてはいけないのだろう。そして、それらと向かい合うには、向かっていく自分を知らなければ、向かい合うことを始めることすらできない。
幼い頃から見る夢。青い薔薇と城の夢。――悲しいくらいに淋しい。淋しいくらいに愛しい。
繰り返し見るあの夢に、もし意味があるのだとしたら。その意味を解けば、少しは、自分が何者なのか、わかるだろうか……?
 ―――温かな紅茶を注ぐ。パイをよそった皿を、盆の上に置く。それを持って、スズメは居間へと身を翻した。何もない小さな、だが独りには大きすぎる淋しい部屋。だが今は、ただ一点、いつもと違う。その一点が、何よりも心強い。
 この胸に抱えた感情が甘えだと言われても、言い訳はできないだろう。だが今は少しだけ、その甘えに縋りたかった。――少し冷えてしまったこの心を、温めさせてもらって。自分と向き合うための、ささやかな勇気をもらおう。
 ティーカップの吐く湯気は、柔らかく揺れて。薄くて小さな、筋を描いた。居間へと向かう、スズメの足跡を辿るように。



スズメ・狂犬
文:穐亨

終わり無き冒険へ!