Novel:11 『Lily of the Incas』3/4

 巨木は――巨木に擬態した魔物は、その老人の顔を動かし、今度は肉声に近い音で「主……何故、そのような者どもを庇う……?」とスズメに訊ねてきた。
「その子供は、恐れも知らずにこの森の深奥まで向かおうとしていた……。ここら一帯の植物を、踏み荒らしながらな……。そしてこの男は……」
 と、根が締め付ける力を強くする。「ぐはっ」と男が苦しげな声を上げるのに、《やめてっ》とスズメはもう一度大きな声を上げた。魔物は、気にした素振りも見せずに続ける。
「……この男は、貴女を“魔女”と侮辱し、貶めた……我等の主である、貴女を」
《そんなの……私は気にしないわ………それに私は貴方達の主なんかじゃない……ッ。たまたま、この森に移り住んだだけで……!》
「―――そんなことは、問題ではないのだよ。主……」
 魔物のしわがれた声は、何故か優しく、幼児を諭すような響きで、スズメの耳朶を打った。
「貴女が何処に住んでいるかなど、問題ではないのだよ……」
「……?」
 魔物の言葉に、スズメはわけがわからず、いつも曖昧な微笑を浮かべている顔に、途方に暮れたような色を混ぜた。今まで、森の植物たちや魔物たちに「主」と呼ばれることは稀ではなかったが、それは単純に、この森に住んでいる人間がスズメ一人だからだと思っていた。だが、それは関係ない……?
《……とにかく、この人達を放してあげて………お願いだから》
「……主のご命令ならば……」
 いかにも渋るような調子で魔物がそう言うと、根の力が緩み、ドサッという音を立てて男が地面に倒れた。男は咳き込みながら身体を起こすと、同じように解き放たれた子供の方へとまろぶように駆け寄り、ぐったりとした小さな身体を抱きしめた。まだあどけなさの残る子供の胸は、小さく、そして規則正しく上下を繰り返している。それを見て、スズメはほっと息を吐いた。
《……ありがとう》
 魔物の幹を撫でながら、スズメが言う。しかし魔物は、「主は、甘い」と不機嫌そうに呟いた。
「主は、あまりに寛大だ……だから、人間どもが付け上がる。貴女を“魔女”などと呼び、迫害する」
《……私は、気にしてないわ。“魔女”という言葉だって、町によっては、別に悪い意味でもなんでもないのよ? 確かにこの辺りでは、あまり良い意味でないにしても………》
「……我らが気にしているのは、そんなことではないのだよ。主」
 魔物は細い枝の一本を伸ばし、スズメの身体を抱きしめるように巻きつけてきた。それが、あまりに優しかったので、スズメは引き剥がす気にもならなかった。
「主は先程、自分を身代わりにして、あの人間どもを我から助けようとした……。貴女がその調子では、我等がどんなに頑張ろうと、貴女を守りきることができぬよ」
 そう言う魔物の声は、切ない程に温かい。それに戸惑いを覚えながらも、スズメは小さく首を振った。
《……私は……人間、だから。町の人達には……そうは、思われてないみたいだけど……でも、それでも………》
 同じ人間を、守りたいのだと。そのためになら、何も持っていない自分など投げ出しても、痛くもかゆくもないのだと。スズメは、そう、魔物に言いかける――が。
「………貴女は、何も知らぬ」
《え……?》
「貴女は……」
 ふと、魔物は言いよどみ。しゅるっとスズメから枝を放した。
「貴女は、我等の主だ……故に、我等は貴女を守る。……貴女も、そのことを忘れないでいただきたい……」
《……私は、貴方達の主なんかじゃないわ……だって………私は、人間だから……》
 ――しかし、魔物は老人の顔に憐れむような表情を浮かべると、沈むように顔を幹の中へと引っ込めた。《ねぇ……》と、スズメが一度だけ呼びかけたものの、返事をしてくる様子は全く見られない。
「…………」
 スズメは巨木から手を放し、周りを見回した。スズメが魔物と話している間に逃げたのだろう――あの親子の姿は、何処にも見当たらない。
 傾いた太陽――逆光に、周りを取り囲む木々が黒く見える。
《私は……人間、よ………?》
 何故か泣き出してしまいそうな気分で呟いた、声にならない言葉は。誰に聞かれることもなければ、風にさらわれることもなく。ただ、その場でわだかまって、消えた。

***

「おばあさま」
 幼い声――スズメはそれを、幼い頃の自分の声だと認識した。まだ、人の言葉を話すことに、抵抗のなかった頃の自分の声。涙をはらみながら、何やら話している。
「あのね、おばあさま。スズメね、夢を見たのよ」
「へぇ? どんな夢だい?」
 優しそうな声が、幼いスズメに答える。おばあさまの声だ――そう思った途端、スズメはなんだか泣きたくなった。泣き方など、当に忘れてしまったが。幼いスズメは、そんな現在のスズメの気持ちなど知りもしないで、あどけない調子で、クスンと鼻をすすりながら続ける。
「あのね、あのね。スズメ、真っ青なバラの花畑にいるの。それで、お城みたいな、おっきいたてものを見てるのよ。とても、かなしかったの……」
「……どうして、悲しかったんだい……?」
「わからない。でも……そう。きっと、あのお城にね、スズメは行きたかったの。でも、行けないのが、わかっていたから。だから、かなしかったの。さびしかったの。………たぶん、きっと、そうよ」
 言っている間に、また悲しくなってきたのか、幼いスズメはまたワンワンと泣き出した。
「大丈夫だよ……ばあが、一緒にいるからね。それなら、悲しくないだろう?」
 深い温かさを湛えたその声に安心したのか、幼いスズメは、次第に泣き声を小さくし。やがて「うん……」と頷いた。
 声は、次第に遠くなっていく。聞き取りづらくなっていくそれに、スズメは耳をこらした。
「……あのね。そういえば、おかしいのよ、おばあさま。おんものモミの木さんがね、スズメのこと、ひめって呼ぶのよ。マダラさんも……。スズメ、おひめさまなんかじゃ、ないのにね」
「……それはね、きっと。スズメが、ばあのお姫さまだ…らだよ」
 どんどん聞き取りづらくなっていく声。それを必死に聞きながら、スズメは今なら泣けるような気がした。記憶の中にある、幼い女の子のように。
「スズメ……おば…さまの……?」
「あぁ、そ…だよ。大切な、大切なお姫さまさ。あぁ、斑や樅に……ても、そう…のかもしれな…ね。大切……お姫…まなの……」
 やがて――声は聞こえなくなった。独り取り残されたスズメは、だが、それでも何処からか、まだ声が聞こえるように感じた。

―――大切な、大切なお姫さまさ。

――大切な。

――大切な。


>>続く

終わり無き冒険へ!