Novel:12 『水辺の探し人』

「――っつめてぇ……」
 でも気持ちぃ、とフージェンは口元を綻ばせた。白い網目模様を描きながらフージェンの足下を行き来する波は、その流れに逆らいさえしなければ、いつかはどこか遠くへ自分のことを運んでいってくれそうだと、フージェンはなんともなしに思っていた。そう、あの町――故郷の白船町にいた頃は。
 あの町は、女であるフージェンから船乗りになる夢を遠ざけていた。それを思えば、大好きな白い帆の群も、見ているだけで苦しいものであった時期もある。それでも、船への――そして海への憧れは、フージェンの胸から決して消えることはなかった。
 そして今。自分がいるのは、故郷から遠く離れた地――
「――さて。そろそろ、船に戻るか。レオ兄がもう船長起こした頃かもしんないし」
 そう、フージェンが視線を向けた先には、一艘の大きな船があった。埠頭に停泊しているため今は帆を畳んでいるが、出航の際には堂々たる美しい姿で、真っ白な帆一杯に風を受けて進む船、ロカターリオ号。性別と名を偽り、その船の船員になってから、もう一年近く経つ。
 目を細めて、朝日に輝く海面にゆったりと浮ぶそれをたっぷりと眺めてから、フージェンは手に持った赤いバンダナを素早く頭に巻いた。
「――ッよし、行くか!」
 波に濡れぬよう浜辺に置いたサンダルを両手に一足ずつ持ち、わざと波しぶきを立てるように走り出す。キャッキャと一人はしゃぐフージェン――その視線の先に、ふと、一人の女性が映り込んだ。


水辺の探し人


 その女性は、海の中に少し入った場所にある、海面に突き出た岩に座っていた。青い髪は風に揺れ、白い朝日に映える有様が、まるで風に揺れる波と同一のものであるような錯覚を覚えさせる。
 白い肌を包むドレスも、足に纏いつくスカート部分まで青い。人魚姫みたいだ、と半ば無意識にフージェンは思った。身体のあちこちに巻いた赤い紐が、やけに印象的だ。
 背を向けているため、顔は見えない――が、フージェンは迷わず進行方向を変え、海の中へと入っていった。動きやすいよう膝上までたくし上げているズボンの裾に、縦に揺れた波が触れてくる。
「お、ねーぇさん!」
 そうフージェンが声を張上げる前に、女性はフージェンに気付いていたようだ。振り返ってくる目が、サンダル両手にバシャバシャと近付いて来るフージェンの姿を捉えたのを、フージェンは感覚的に理解した。金色の、目尻の甘い、だが隙のない眼。背筋がぞくりと震えたのは、水の冷たさか、それとも別の要因か、フージェンには判別がつかなかったが。
「えと……そんなとこで、なにやってるんだ? 潮が満ちたら、あぶねぇぞ?」
 そう言いながら、フージェンは自分の台詞がひどく無意味なものであると、頭のどこかで思った。きっと、この女性には不必要な助言であろう。海は、目の前の美しい女性を害することなどありえない。なぜなら、彼女は人魚だから……。
 ふと、夢想にとり憑かれている自分に気付き、フージェンは慌てて頭を振った。この女性には、白く長い二本の足がある。人魚ならば、魚の尾が足の代わりについているのだと、幼い頃兄が読み聞かせてくれた本にあったではないか。
 改めて女性を見ると、女性がくすりと口元を綻ばせた。妖艶なその表情に、フージェンは思わずドキリとして、両肩を跳ね上げた。
「―――ありがとう」
 美しいその声が、目の前の女性の発したものだとフージェンが気付くまで、数秒かかった。ようやく気付いてからはサンダルを持った両手をわたわたと振って、「あ、や、その」と口ごもる。
「貴方――この町の子じゃ、ないわね?」
「え……あ、うん。あの、船に乗ってさ、来たんだ」
 ドギマギと自分でも不思議なほど緊張を覚えながら、フージェンはそう答え、ロカターリオ号を指差した。
「すげぇ、綺麗だろ。オレ、あの船の乗組員なんだ」
「そう……良い船ね。大切にされてるのが、ここから見ていてもわかるわ」
「あ……あぁ! そうなんだ!」
 船を褒められたことが誇らしく、フージェンは顔に満面の笑みを浮かべた。大げさな身振りをし、
「船員も、みんな良いヤツばっかなんだぞ! 船長はアホだけど、船動かすのすげぇ上手いし、レオ兄は優しくて頭いいし、ビゴさんの料理は超美味いし! イレーネ姉は頼りになるし……ホント、みんな海が大好きなんだッ」
 女性はフージェンの話を、たまに相槌を打つ以外は微笑んだまま黙って聞いていた。そして、フージェンが口を閉じると、逆に紅い唇を開き、
「貴方も、海が好きなようね?」
「う、うんっ。まぁ……な!」
 えへへ、と照れ隠しに頭を掻こうとし――サンダルを手に持っていることを直前に思い出して、慌てて思いとどまる。その様子を、微笑ましいものでも見るように見ている女性の視線に気がつき、フージェンは顔が何故か赤くなるのを自覚しながら、慌てて話題を変えようと再び口を開いた。
「あの……おねぇさんも、ここの町の人じゃぁ……ない、よな? オレ、このトルナーレには何度か来たことあるけど、おねぇさん見たことねぇもん」
「えぇ。私は、人を探してるの。貴方、あちこち行っているなら知らないかしら?――燃えるような赤い髪と、朽ちることのない木の葉と同じ緑色をしている、強い男を」
 男の特徴を囁く女性の目が、不意に妖しい光を帯びたような気がして、フージェンははじめに感じた背筋の冷えを思い出した。
「え、えーと……赤い髪に緑色の眼……ねぇ………」
 頭にひっかかるものがあり、うなりながら思い出そうとする。
 レオ兄は青い髪だし、ビゴさんも髪と眼両方茶色だから違う。船長なんて髪真っ黒だし――
「――あ」
「……! 思い当たるの?」
 女性が、岩から身を乗り出しそうな勢いで訊いてくる。それに、フージェンは軽く首を傾げてみせ、
「え……と。ヴァーダさん、とか? 船長と仲良いヒトなんだけど………」
 でもあのヒト学者らしいし弱そうだよなぁ……と、普段船長といろいろ言い合っている二児の父親の様子の姿を思い浮かべつつ、上目遣いに女を見る。
 女も、ヴァーダという名前に思い当たる節がないようだ。形の良い眉をきゅっと寄せている。
 だがフージェンも、他には思い当たらない。何か引っかかりそうなものがあるような気がしたが、これだけ考えても出てこないのだから、きっと気のせいだろう。
「………ゴメン。役にたてねぇみたいだ」
 そう、肩を落とす。女性の目からは先程の妖しい光は消え失せ、「いえ……」と髪を掻きあげながら首を振った。同時に、赤い紐で括られた鈴がちりんと涼やかな音を立てる。
「……おねーさんって、不思議なヒトだな。なんか……」
 ―――海の女神みたいだ。
 思わず口から出そうになった言葉を、フージェンは寸で飲み込んだ。
 幼い頃から崇拝の対象である海の女神――美しく気高いかの女神が人の姿をしていたら、きっと彼女のようなのではないだろうか。だからきっと、自分は今こんなにドキドキとしているのだろう。フージェンは、半ば本気でそう思った。
 その時、フージェンのことを見返していた女性が、フッと微笑んだ。まるで自分の考えを見透かされたような気がして、フージェンは空気の塊を飲み込んだかのように、一瞬声がでなくなった。目を、ぱちくりとまばたきさせる。
 ―――と。
 まばたきをした一瞬で、先程まで女性がいた岩から、女性の姿がかき消えた。
「……っえ………えぇっ!?」
 まさか海に落ちてしまったのだろうか。慌てて、服が濡れるのも構わずに女性がいた岩場まで駆け寄る。
 周辺に、女性の姿は影も形もない。海の中にもだ。海はひどく穏やかで、波も殆どないため、波にさらわれていってしまったというのも考えにくい。
「………もし、かして………」
 掠れる声で、フージェンは口の中だけでポツリと呟いた。

………ホントのホントに、海の女神だったのかも。

******

 フージェンが海から上ると、町のある方から歩いてくる人影が二つあった。
「おやフージェン! ずぶ濡れじゃないかい」
 そう慌てた様子で駆け寄ってくるのは、トルナーレで仮面職人をしているココリータだった。確か、フージェンと三つ程度しか変らない年齢のはずだったが、既に結婚をしている、強く綺麗な女性だ。光沢のある金髪が陽の光に、きらきらと輝いている。
「だいじょうぶだよ……それより、リタ姉にアオサは、こんなとこでなにしてんの?」
「コータどんのサンポー。んで、ンージェンさんはなんで海ん中なんて入ってたんだ? 寒中水泳?」
 コータと呼ばれた犬は嬉しそうに浜辺を走っている。フージェンはそれをちらりと確認してから、「そういうわけじゃないけど……」と口ごもった。きっと、波にさらわれたわけでもなく、唐突に人が消えてしまったなんて話――信じてもらえそうにない。岩の上には、さっきまでのことがまるで夢かなにかであったように、女性がそこにいた痕跡はなにもない。
「船に戻ったら、すぐにお着替えよ? 身体を冷やして風邪でもひいたら大変だからねぇ」
「う、うん……ありがと」
 ハンカチで顔の水を少々強引なくらいに拭き取ってくれるのに任せながら、フージェンはココリータの言葉に頷いた。だが、それもどこか上の空だ。頭は、まだあの女性のことを考えている。
「――さて、そろそろ戻らなくちゃねぇ」
 フージェンの顔を一通り拭いたココリータが、ハンカチを仕舞いながらそう言った。
「今日は旦那様が帰って来るって知らせがあったからねぇ。夕飯の支度をしないと」
「わーいごちそーだー。イタさん帰ってくるからはりきってごちそーだー」
 少女と見紛うばかりの容姿をしたアオサとは、ロカターリオ号の乗客として、フージェンも何度か面識があった。今は、ココリータの家にいるらしい。囃し立てる眼には、既になにやら企んでいる光が宿っている。
「イタ……ヴェイタさん、か………」
 ココリータの年上の旦那の名を、ほとんど反射的に繰り返す。優れた剣士だが、――詳しくは知らないが――病気を患っているらしいと聞いている。普段は旅に出ていて、トルナーレにいることは少ないようだ。やはり何度か面識があるが、少し不器用そうな、だが温かみのある男だった。
 ―――と。そこで、先程青い髪の女性と話していた最後の方で引っかかっていたことが、再び鎌首をもたげた。
(………そう言えば。やたらとヴェイタさんに絡んでる客がいたよなぁ………)
 その客は、腹を空かせて行き倒れそうだったところを、近くを通りかかったヴェイタに飯を奢ってもらったらしい。それ以来味を占めて、やたらと懐いているそうな……。
(確か……あの客も、赤い髪と緑の眼をしてなかったか……?)
「………」
「?」
「どうかしたのかい?」
 いつの間にか考え込んでいたらしい――二人と一匹の訝しげな視線に気がつき、フージェンは「あ、いや……」と笑って誤魔化した。
「なんでもねぇよ。それより、急いで帰って、飯の支度するんだろ?」
 フージェンが言うと、「そう言えばそうだったねぇ」と慌ててココリータとアオサ、そしてコータは町の方へと帰っていった。
 その背を見送りながら、フージェンは先程浮んだ考えを、ぼんやりと思い返していた。
(燃えるような、赤い髪…………でもあのヒト、そんな強そうじゃなかったしなぁ)
 以前、船に乗った時は、カイエという少年と船の倉庫を漁り、勝手に持ち出した魚を味付けもせずに焼いて貪っていた。
 結局、フージェンにとってあの赤毛の客は、その程度の認識でしかなく。その認識から思い起こされる様子は、どうもあの美しく神秘的な女性とは結びつかなかった。
 ちろりと、もう一度海に視線を向ける。空っぽの岩座は、だんだんと満ちてきた海の波に洗われ濡れている。
「………まさか、な」
 小さなその呟きを笑うように、波がざぶんと音を立てた。



フージェン・レディ・アオサ・ココリータ
文:穐亨

終わり無き冒険へ!