Novel:09 『緋と藍と』 3/3

『   、私と一緒に子供達を殺そう』
 そう‘甘い水の神’が持ちかけた時、言いしれぬ失望感が彼女の中を駆けめぐった。
 弱い男だった。
 だから自分たちから生まれ出でた神々が力を増して、いずれ自分たちが権力を失ってしまうことを怯えた。
 自ら決起して彼らに戦いを挑むようならば力を貸すこともやぶさかではなかった。しかし、彼は子供達に怯え、彼らよりも力のある自分に助けを求めた。
 その弱さが許せなかった。
 力の問題ではない。心があまりにも弱すぎる。それが神を名乗ることが許せなかったのだ。
『愚かは嫌いではないわ。でも……』
 彼女の剣が煌めいた。
『私、弱い人、嫌いなの』
 瞬間、彼の身体は文字通り八つ裂きにされた。
 その事実を知った子供達もまた彼女を殺そうと刺客を差し向けた。
 結果流れた夥しい血が、常磐の海を深紅に染めた。
 その赤が、彼女に名前を捨てることを決意させた。
 全てに失望したのか、はじめから捨てる時を待っていたのか。それは分からない。捨てたところで何の感慨もない。
 ただ、漠然と解放されたのだと思った。
「……様?」
 呼びかけられて、彼女は目を見開いた。
 見知った顔が、自分を見下ろしている。
 彼女の身体は海水に浸されており、負った傷は水の力で閉じ始めている。
「メレディス様、良かった、お気づきになられましたか」
「……どうなったの?」
 彼女は自分の手のひらを見つめる。
 赤く染まっていた。
 自分の血液だろうか。それとも彼のものだろうか。
「ツィーダルとの戦いであなた様は負傷され、その上大規模な魔術を使ったがために昏倒しておりました。どちらの軍も壊滅的な打撃があり、双方撤退しました。撤退開始から一時ほど過ぎております」
「彼、は?」
「詳しくは。ただ、メレディス様同様に消耗し、あちらの陣に担ぎ込まれたのは分かっております。生きているのか、死んでいるのか分かりませんが」
「生きているわ」
「そうでしょうか」
 彼女は自分の手の平の赤をなめる。
 極上のワインを口に含んだような味がした。香り立つ芳醇な匂いのなかに、微かに甘美な味を感じる。
「彼が、あの程度で死ぬわけがないわ」
 それは確信。
 あの男は生きている。
 この目であの男の死体を見ない限り、この手で切り裂かない限り、とても信じることは出来ない。
「監視を頼めるかしら」
「どちらを、ですか?」
「天界を。ツィーダルが出陣する戦があるのなら真っ先に私に伝えなさい。あれは、私の最上の獲物よ」
 男は一拍おいて、そして微笑み恭しく礼をした。
「仰せのままに、ロワ=レディ」


   ※  ※  ※  ※

 それからどれほどの月日が経過しただろうか。
 天の神が人間にたいして制裁を加えるために何人かの神を地上に降ろしたと知った。その中にツィーダルの姿があるのを報告を受けた。
 決着をつける。
 そのために彼女は制裁に来た神々を遊撃する任を引き受けた。
 赤い髪の男の噂を聞く度に様々な街を訪れ、鈴を落とした。それは目印になるだろうと思ったのだ。
 本当にツィーダルが来ているのなら、そして自分が人間界に射ると知ったなら、彼は絶対に自分の元を訪れる。そう思ったのだ。
 そして、ついに、鈴の音を聞く。
 船に乗った赤い髪を見て、鳥肌が立った。
 長い間追い求めていた男が、そこに立っていたのだ。
 ところが彼女は男の口から衝撃的な言葉を聞かされることになる。
 彼女は岩場に抱きつくように横たわり、くすくすと笑った。
「……覚えていない、ですって」
 自分は片時も忘れた事が無いというのに、当のツィーダルは自分のことを忘れ、神の力もまた衰えさせていた。
「ゴンベ、ですって、冗談じゃないわ」
 怒っていたはずだった。自分のことを覚えていないこと、あの時、一対一で戦っていた彼が「仲間」と共に戦っていた事を。
 けれど、何故だか笑いがこぼれる。
 何もかも忘れ、神としての彼の力はすっかり衰えていた。
 それなのに、時々見せる‘苛烈’の片鱗。
 あの時戦場で見た緋色の、戦慄を覚えるほどの美しさ。
 記憶を失ったという彼にもまだその欠片が残っている。それが嬉しかったのかもしれない。
「……忘れたのなら、思い出させてあげるわ」
 彼女は首をもたげた。
 夕陽に赤く染まる海の遠くから船の音に混じり、鈴の音が聞こえる。
「思い出せないなら、屈辱的な敗北を」
 そうすれば、彼は二度と自分を忘れたりしない。
 彼女は獰猛な笑いを浮かべる。
 ばしゃり、と水が跳ねた。



 さぁ、戦いを始めましょう、ツィーダル。



メレディス・ツィーダル(ゴンベ)
文:みえさん。

終わり無き冒険へ!