Novel:08 『小夜嵐』 4/4
いつの間にか嵐の気配が消えている。
ふわりと吹いた風に巻き起こされるように焚き火に炎が戻る。がやがやと俄に辺りが騒がしくなった。
戻ってきたシリンは他の兵士達同様に水に濡れて、衣服も泥まみれにさせていたが、つつがなく終わりましたと誇らしげに微笑んで見せた。
「怪我はないかね?」
「はい、先生たちがこちらにいらして下さったから後ろを気にせずに戦えました」
「私は手出しするつもりなど無かったよ」
「もちろんです。私がそう頼んだのですから簡単に甘やかしてもらっては困るんです」
シリンは心外だとでも言うように腰に手を当てて言う。
そして笑った。
どこか太陽のような暖かい笑み。
「先生はそこにいて下さるだけで安心できるんです。先生がいて下さって今夜は本当に助かりました」
「力になれたのかね?」
「はい、とても大きな力を貸していただきました。……こんなみっともない格好のままじゃいけませんね。先生、エスメラルダ様、着替えてきたら今暫くおつきあいして下さいますか?」
「夜も長いからね、私は大丈夫だよ」
ちらりとエラムを見やると、仕方がないと言う風に頷いて見せた。
のちほど、と一礼をして去っていく彼女を見送った後、不意に腕を捕まれジルは苦く笑った。
乱暴に捕まれたせいで揺れたグラスから酒がこぼれる。
「いきなり腕を掴むとは少々乱暴ではないのかね」
「手出しするつもりは無かったじゃと? 嘘付きめ」
エラムの目はジルの左手に付けられた呪符を見ている。
それはこの陣に入るまでは無かったはずのものだ。
「ただの酔い止めだよ」
「ふん、そう言うことにしておいてやろうかの」
叩き落とそうとするかのように乱暴にジルの腕を放した。
ジルは隠すように袖を戻した。
「御主、あの者を信頼しているのじゃろ?」
信頼しているし、シリンも自分のことを信頼してくれている。
けれど、だからといって心配で無いわけがない。
一時期とはいえ、彼女は自分の弟子であったのだから。
「信頼しているのと心配しないのとでは随分違うと思わぬかね?」
「屁理屈を」
「真理だよ」
真顔で返すととたんに彼が吹き出した。
ジルもそれにつられたように笑う。
エラムが酒瓶を軽く上げたので、ジルもそれに倣ってグラスを掲げる。かちんと小気味のいい音がした。
「嵐は去ったようだね」
「そのようじゃの」
小夜嵐は時折人の知らぬ間に花を散らせてしまう悪戯な嵐。それでも花は散るが定めと咲き誇る。
そして嵐も時には散らせない花もあるもの。
「エラム、私の故郷に来ないかと言う話だけどね」
「……ああ」
「君が人間を好きかどうかの問い掛けと一緒に保留にしておくよ」
一緒に来ないかと誘ったものの、本当は連れて行けないかもしれない。一緒に行ったところで滅びる可能性を孕んだ世界。彼が生き延びられる保証もなければ、世界を救える保証もない。そもそも時の流れの違う場所。そこにいて彼にどんな影響があるか分からない。そのまま過ごせるかもしれないし、一瞬にして命が尽きるかもしれない。
そんなことは口にしなかった。話をした時点でエラムも推測しているだろう。
でも、実際にそれが出来るか否かではない。問いかけた事に意味がある。それはお互いにとって。
「私が本当に戻らなければならなくなった時、君が側にいたのなら、もう一度聞く。それまでに考えておいてくれぬかね?」
エラムは片目を瞑る。
少し穏やかな顔をしていた。
「情報だって、ただではないのじゃよ?」
くすくすとジルは笑う。
「ならば情報代はあちらに戻ってから払うとするかね」
悪徳め、とエラムがジルの脇腹をつつく。
どっちが、と笑いながらジルは酒を煽った。
賭けてもいいと思う。
エラムはジルの手を取らない。
ジルの問い掛けを必要としない。
彼はきっとこの世界のことが好きなのだ。本人は気付いていないかもしれないし、指摘すれば否定をするのかもしれないけれど。
それでも彼は気付いているはずだ。自分の取り巻く世界が少しずつ変化し始めていることを。世界が彼に対して優しくなっていることを。
「……本当は最初から優しかったのかもしれないけれどね」
「何じゃ?」
怪訝そうにエラムが見返す。
何でもない、と立ち上がりぐっと身を伸ばす。
ごう、と強く風が吹いた。
揺らされた炎は一瞬消えそうな程に弱まったが、風が止むと再びぱちぱちと音を立てて燃え上がる。
風の去った方を見上げてジルは笑う。
明日は穏やかな天気になりそうだった。
ジル・エラム・シーリィン
文:みえさん。