Novel:07 『うたかた』 4/5

 死ぬわけにはいかないと思っていた。
 自分が王だから。
 カサンドラと約束をしたから。
 まだ、守らなければならない子供がいるから。
「……違うな」
 ヒルトは呟く。
 義務で生きている訳ではない。国や家族の事はきっと生きる理由じゃない。それは自分が立ち上がるための理由であって、生きている理由はもっと他にある。
 死ぬのが怖いと思った。
 幼い頃のヒルトの身体は酷く弱く、下級でこそあれ貴族という階級に生まれなければ‘間引き’の対象にあっていたのだろうと思う。ヒルトが幼い頃のアドニアは酷く困窮していたし、一握りの小麦を巡って殺し合いが起きたこともあった。
 貴族だから生かされている。誰も口にはしなかったが、それはいつも感じていることだった。大人しくしていなければ、せめて勉強が出来なければ自分は殺されてしまう。恐ろしくて人の顔色ばかり窺っていた。生き延びることに必死だった。
 ロニスの屋敷の前で人が死んでいるのを何度も見たことがある。施しものを望んで来たというのに、貧乏貴族では養うにも限度があった。だから倒れて死んだ。自分よりも丈夫そうな子供だったり、大きな体つきの男達が病気や戦争ではなく餓死という形で幾人も死んでいった。
 自分が死ねば助かった人もいるかも知れない。そう考えると僅かなものにすがって生きている自分が浅ましい生き物のように思えた。それでも、死が怖くて、生き続けることしか考えられなかった。目の前で死ぬものの原因を知りながらも見ない振りをしてきた。
 カサンドラと会ったのはその頃だった。
 王女という事を知らなかったために只の生意気な娘だと思っていた。初めは本当に大嫌いだった。
 けれど襲いかかってきた魔物を一人で引き受けてでも戦おうとした姿を見て鳥肌が立ったのだ。
 同年代の女。
 本来は男である自分が守るべきなのに、逆に守られて、彼女を見捨てて逃げ出そうとさえした。それでもその場に留まったのはそこで逃げ出せば一生後悔すると思ったのだ。
 死が怖くなかった訳ではない。
 これから先を生きるために戦おうと思ったのだ。
 力で足りない分頭で考えた。
 二人が生き延びる方法を。
 正直言ってその時どうして魔物を倒せたのか分からない。気付いたら二人とも血だらけで座り込んでいた。いつの間にか握っていた少女の手のひらは汗ばみ、震えていた。
 恐怖を感じていたのは自分だけでは無かったと知った。
「生まれて初めて自分以外のものを守りたいって思ったんだ」
 自分自身が生きるのに必死だった。
 だから周りのことは何一つ見えていなかった。
 見ていたのに気付かないふりをしていた。自分には力がないから、守ることなどできないと。自分は守ってもらうべき立場なのだと勝手に思いこんでいた。
 でも、目を瞑ってばかりいられなかった。
「……弱くとも、戦える力があると知ったから」
 やがてカサンドラを経由して会った旅の魔法使いから、自分の身体が弱い原因は呪いが原因だと聞かされた。血が半分しか繋がらない弟レイドの母親が、レイドをロニスの当主にするために仕組んだ事だと聞かされた。
 義理の母親を殺したのは怒りや悲しみからくるものもあったが、自分が義母を許してしまえば当主の座に納まるとしても弟に譲るにしても、弟があまりにも哀れだったからだ。
 恨まれることを覚悟で義母を殺したその足で、弟の寝室に向かい真実を伝えると、まだ十二になったばかりの弟はただ静かに頭を下げた。
 弟は知っていたのでは無いかと思った。
 彼も自分と同じだったのだろう。同じ恐怖に怯えていた。
 国民全てが、その恐怖に怯えていることを知った。
 義母を殺し血に塗れた手のひらを見て、初めて国の現実を直視したのだろうと思う。
「カサンドラは俺に王になるようにすすめたんだ。俺は地位が欲しかった」
「何故?」
「自分でも出来ることがあると分かったからだ。地位があれば自分がしようとしていることが楽になる。だから王になることを了承した」
「地位で何もかも出来るわけではないよ」
「分かっている。でも、王にならなきゃ出来ないことだってあった。簒奪者と言われることになったとしても、俺には見過ごせない事実があったんだ」
「王になって何をするつもりだったんだね?」
「支えようと思った。……見たくなかったんだ。俺は、餓死する人間も、俺のように死に怯えて何かにすがって生きるだけの人間も、俺自身が見たくなかった。カサンドラも同じだった」
 カサンドラは王女という理由で贅沢な暮らしをさせられた。どこかで餓死する人間がいるというのに、何もしていない自分が裕福な暮らしをしている。同情することすら許されない環境で育った彼女は、やはりそれを見たくなかったのだろう。
 自分が王になれば少しは変わると思った。よりよく治められるかは自分でも良く分からなかった。でも、苦しむ民を、自分のような民を増やさない為には何かしなければいけないことを感じていた。
 少なくともカサンドラは痛みを知っているヒルトなら道を誤らないと信じたのだ。もしも誤っても自分が諫められるのだと信じたのだ。
 多分その判断は間違っていなかった。
 賛同した国民、同盟を結び統合を許した諸外国の反応がその答え。
 国が安定するに従ってアドニアの敵は諸外国から魔物に変わっていく。
 それでもやることは変わらない。
 苦しんでいる人間を見ないために、目の前で苦しんでいる者達を救うために、力を持った者が戦う。時には見捨てる選択も必要だった。それでも自分自身が後悔しないように、見捨ててしまった人間を真っ直ぐ見られるように。
 王になった理由も、王で有り続ける理由も、それだけなのだ。
「魔法使い」
「何だね?」
「俺は立てるのか?」
「そなたが望むのであればね」
 ヒルトは腕に力を込めて立ち上がった。傷を負っていた足にも痛みはなくすんなりと立ち上がれた。おびただしい血は流れ出ているが傷はどこにもない。綺麗に消え去っていた。
 彼はちらりと後方を見やる。
 その岩場に自分を貫いた金の剣が突き刺さっている。貫かれたはずの腹部には傷はなく、ただ鈍い痛みだけが残っていた。
「変な剣だ」
 剣を岩から引き抜きながら男は笑う。
「だからそなたには扱えぬと言ったのだよ。まぁ、鈍器にはなるようだけどね。……それで、少しは楽になったのかね?」
「……死の恐怖を思い出したな」
「‘泡沫’はその者の中にある物を見せる。死の恐怖はそなたにとってとても重要なものなのだろう」
「うたかた? それが剣の名前か?」
 彼は頷く。
「私の最愛の妻が付けたものだ。元は水面に浮かんでは消える儚い気泡の事、あの子はそれでも形を変えても久遠に有り続けるものを例えたようだよ」
「儚く消えても、久遠に有り続けるものか……」
 ヒルトは少し目を閉じる。
 瞼の裏に焼き付いていた鮮烈な赤が、ほんの僅か揺らいだように感じた。

>>続く

終わり無き冒険へ!