Novel:07 『うたかた』 5/5

 男の魔術を使って穴から這い出すと、そこには無数の獣たちがいた。
 穴を取り囲むようにしていた狼たちは低くうなり声を上げる。
 反射的に構えたヒルトだったが、それは男によって制された。
 一瞬、狼が襲いかかろうとするように身を低くかがめたが、それを制するように奥から真っ白な狼がゆっくりと歩いてきて立ち止まる。その目は赤い瞳をしていた。
 狼はじっと男を見た後、まるで人間が会釈をするように頭を垂れる。
 それを見ていた他の獣たちもまた少々戸惑った様子を見せながらも同じように頭を垂れる。
 そして白い狼に引き連れられるようにしながら狼たちは森の奥へと消えていった。
「何だ?」
「白い狼はここの主だろうね」
「主? あの小さいのが?」
「それが見逃してくれたのだ。だから恐らく私たちは運が良かった」
「見逃すって……そんなことあるのかよ?」
「無いというのなら、今のをどう説明づけるのかね?」
 まるで煙に巻くように男はくすくすと笑う。
 どうにもこの男はつかみ所がない。
 険しい表情を見せていたかと思えばすぐに笑い、平気な顔で友人の形のものを斬ったかと思えば今度はヒルトに道を説くような事を言い出す。
 若いように見えて実はずっと年なのではないかと錯覚をする。
「……そういやぁお前」
「うん?」
「女房がいねぇってことは今は独り身なんだろう?」
「まぁ、そうだね」
「じゃあ俺の娘を娶れ!」
「……どうしてそんな話になるのかね?」
「俺がお前を気に入ったからだ。それに助けられた礼も必要だろう。あれだ、ほら、俺に万一の事があったら、絶対に跡継ぎが必要だ。12の娘にゃまだ玉座は早い。お前アレだぞ、今のアドニアは随分と安定してる。おさめやすいぞ。お前は絶対王に向いて……いてっ!」
 剣で軽く叩かれヒルトは呻く。
「お前、国王に向かってなにしやがるっ!」
「人の話を聞かぬか。……そなたもまだ若い。新たに妻を迎え世継ぎをもうけることも可能であろう。それに12の娘が私を夫に迎えるのには少々年齢差が……」
「お前、俺の娘が気にいらねぇのか? 言っておくが俺に似ないで美人だぞ」
「そう言う問題ではない。………私には息子がいてね、それが少々、ヤキモチをやくのだよ」
 微妙に歯切れ悪く男が答える。
 ヒルトは頭を掻いた。
「息子がいるのか……」
「そうだよ。アドニアの姫を娶るには少々問題があるだろう」
「じゃあお前、何だ、何が欲しい!? 言え!」
「何故私が脅迫されているのかね」
「礼をしようとしているんだ! おい、俺に礼もさせないつもりか!」
「そんな大したことはしていな……」
「王を助けたのに大したことねぇだと! お前に取って俺の命はその程度か! 俺の命を助けたんだ、人質にとって国土の半分くらいよこせ位のこと言ったらどうだ!」
「どういう理論だね、それは」
 男の襟首を掴んですごんでいたヒルトだったが、彼が笑い出したのを見て不意に表情を緩める。
 大きな笑いを笑って、ヒルトは男の肩を組む。
「悪い、久しぶりに気分がいいから取り乱した」
「それ以上力を込めると私の首の骨が折れるよ」
「……で、何か礼は出来ないのか?」
「強いて言うのなら、アドニアにある魔術に関わる文献を見せてはくれぬかね?」
「本? そんなもんでいいのか?」
 随分と欲がない。
 本当に人質に取られても困るが、国王を助けたのだ。せめて金の入った袋を要求しても安いくらいだ。それなのに男はそんなものに興味がないという風を見せる。
 褒美に小さい街で良ければ領主にしてもいいと言ったが、それは要らないと断られた。
「古い文献、まして禁書と呼ばれる類のものは魔法使いにとっては喉から手が出るほど欲しいものだよ」
「はーん、そんなもんか。ま、承知した。王に二言はねぇ、アドニアまで距離があるし、俺はまだこの国でやることがあるからすぐにとは言えねぇが、絶対に礼をする」
「では、暫くしたらアドニアを尋ねることにするよ」
 男はにこりと笑う。
 彼はちらりと遠くの方を見やる。あわただしく騒ぐ自分の国の兵達の姿が見えた。
「迎えが来たようだね」
「……魔法使い」
 呼びかけると男が振り返った。
 最初は華奢で頼りないように見えていたが、今はその身体が奇妙に大きく見えた。その背には何故かヒルト以上に大きなものを背負っているようにさえ見える。
 強い眼差しは王の瞳。
「あんたの名前を聞きたい」
「シュゼルド・シウと名乗ったと思うたが」
「ああ、その名前は聞いた」
 ヒルトは真っ直ぐ男を見つめる。
 彼も暫くヒルトを見つめていた。
 やがて唇がほんの僅か微笑む。
「ジルだよ。親友にはルドと呼ばれていた」
 他に呼ばれている名はないのか。
 そう問いかけようとしたが、馬鹿馬鹿しくなって止めた。
 知ったところで自分には関係のない話だと思ったのだ。
 自分を救った男はシュゼルド・シウと名乗った。それだけで十分だった。
「俺はヒルトだ。一人の人間として、アドニアの王として、お前に感謝する。……ジル、いずれ会おう」
「星が巡るときには」
 そう言って魔法使いの男は踵を返す。
 黒いマントを揺らしながら男が歩いていくと横の茂みから先刻の白い狼が飛び出し、主に付き従うようにその後ろを歩き始めた。
 奇妙な光景にも見えたが当然の姿のようにも思えた。
「ヒルト王!! ご無事でございますか!?」
 息を切らして走ってくる兵士達にヒルトは不機嫌に怒鳴る。
「無事かじゃねぇ! こんな危険な道を選んだのはどこのどいつだ!」
 後から馬に乗ってやってきた年老いた男が憮然と答える。
「陛下でございます」
「……」
「暴君のような発言をされても誤魔化されませんよ、陛下。ご自分の非を認め、今後はこのようなことはないようにして頂きたい。……全く、あなたが一人で狩ると言い出して魔物の群れに突っ込んでいった時にはこの老兵、肝を冷やしましたぞ」
「何だ、お前の中では俺はそんなに弱いのか」
「ヒルト王の強さは他国にまで響くほどのものでございましょう。ですが、最近の貴方は無茶が過ぎております。妃殿下が亡くなられてからあなた様の奇行は……」
「あーー、悪かった、悪かったって」
 まだ続きそうな老人の言葉を遮ってヒルトは兵が連れてきたもう一頭の牝馬にまたがる。
「マジで反省した。当分無茶はしねぇ、約束する!」
「信じてもおよろしいので? いつものように簡単に約束を反故されては困りますよ」
「今回はマジだ。……会うべき男が出来た。お前達がアレに泣きついてくれたおかげで面白いもんに会えた」
「……ではあの不死身と呼ばれていた魔剣士、貴方を助けたので? 勝手に出て行ってしまったからてっきり怖じて逃げたのだとばかり思いましたが。今はどちらに?」
 手綱を引いてヒルトは馬を歩ませ始める。
 それに倣うように兵士達も付いてきた。
「今はいない。あっさり消えてった」
 泡沫のように。
 それでもあの鮮烈な赤は覚えている。
 カサンドラの髪と同じ、自分を奮い立たせる赤。
「赤は一番好きな色だ」
「……は?」
「エアに赤い宝石……いや、花を土産に買って帰るか」
 老人は何とも形容しがたい顔つきをする。
 ヒルトが娘に何かを土産にと言い出すのは珍しいことだった。
 何が起こったのか判断が付かなかった老人は絞り出すように言う。
「……雨が降らないとおよろしいですね」
「うるせぇよ」
 老人に凄んで一瞬馬の腹を蹴って走らせようかと思ったが止めた。
 今は不思議と無茶をする気分にはならなかった。



ヒルト・ジル
文:みえさん。

終わり無き冒険へ!