Novel:07 『うたかた』 3/5

「……今のはお前の友人じゃなかったのかよ」
「友の姿を模していただけだ。彼とは似ても似つかなかった」
「だからってなっ」
 顔色一つ変えない彼はおかしいのではないかと問いつめようと、つかみかかろうとしたヒルトは視界が揺らいだのを感じた。
 この感覚は知っている。
 血が失われ過ぎたのだ。
 倒れ込むようにヒルトが膝を付くと支えるように手が差し込まれた。細くて折れそうな手に支えられながらヒルトは地面に横たわる。
「……悪ぃな」
「少し休んでいった方がいいだろうね」
「おめぇ治癒魔法は使えねぇのか?」
「生憎治癒に関してはそれほど才能が無くてね。気休め程度だよ」
「いい、やれ」
「それが人にものを頼む態度かね」
 余裕が無くてついぞんざいな態度になってしまったが、男の方は何だかそれを見透かしたかのように楽しそうに笑う。
 くすくすと笑いながら赤い瞳の魔法使いはヒルトの肩に手を掛ける。魔法使いが魔法を使っている姿はよく見るがこんな風にじっくりと観察した覚えはない。見下ろしてくる瞳の赤は彼が力を使い始めると色が少し深くなった気がした。
「……赤は嫌いだ」
「うん?」
「カサンドラの、髪を思い出す」
「カサンドラ?」
「俺の妻だった女だ。もう、この世にいない」
 四年前、アドニアに攻め込んだ魔物を討伐するために向かった先で自分の目の前でやられたのだ。自分を庇うために、魔物の前に踊り出して。
 あの時僅か交わした言葉は激しく今も脳裏に焼き付いている。
 恐らくそれが無ければ今自分は生きていない。
 あの言葉だけが、あの痛みだけが今自分を動かす糧。
 最初は国を守るための戦いだった。民を守るために、他の国の民を殺し憎まれた。国土を広げるために戦ったことは一度もない。結果的に国が広がることになったが、そう言う目的で戦ってきたわけではない。
 それでも多くに憎まれ、刃を向けられた。自国の民から恨まれた事だって幾度もある。
 心が折れそうになることは幾度もあった。
 でも、そのたびに横を走る鮮烈な赤が自分の古い記憶を呼び覚ました。決意したもの、守らなければいけないものを思い出させた。
 自分を奮い立たせる赤。
 その鮮烈さが今は痛みにしか感じられない。
「……私の、真実妻だった娘も、今この世にはいないよ」
「………」
 ヒルトは男を見る。
 笑っていた。赤が酷く優しく見えた。
「……そう、か」
 この若さで妻を失うというのはどういう気持ちだろうか。どうして笑えるのだろうか。自分はカサンドラを失って痛みしか感じていない。
 その痛みだけが自分を突き動かしているだけだと言うのに。

 何故。

『ヒルト!』
 あの時の妻の声が蘇る。
 魔物の爪に襲われた女の身体は無惨な程に切り裂かれ、それだけ強い声が出るのが信じられなかった。赤い髪が、血を吸いどす黒い色に変色していた。
『いけ、ヒルト、おれに構うな』
 強い言葉。
 自分は何と答えただろうか。
 置いてはいけない。
 お前を一人にはできない。
『馬鹿、王が先頭にいなくてどうする!』
 血だらけの手で腕を掴んだ女の手のひらは冷たかった。
 経験上、それが何を意味するくらいヒルトにも分かっていたはずだった。
 だから迷った。
『思い出せ、ヒルト、おれたちはどうしてここまで来た!?』
 進まなければならなかった。
 自分が王であることを選んだのだから。
 王にした妻を見捨てて行かなければならなかった。出来ることなら、時間が許せば最後の時まで手を握っていたかった。
『国を……おれたちのアドニアを、頼む』
 手を離すのが先だったか、手綱を掴むのが先だったのか。
 それすらも覚えていない。
 妻の強い言葉に背を押されるように一線に駆けだしたヒルトはただもうでたらめに動いた。
 憎しみや絶望による激しい感情よりも、単純に振り向きたくなかっただけなのかもしれない。
 全てが終わってヒルトが本陣に戻ったときには既に妻の息はなかった。
 王だから、人のいる前で泣くことが出来なかった訳ではない。
 ただ突き抜けてしまって涙さえ出なかったのだ。

 それから四年。

 ヒルトは痛みの感情だけで生きてきた。
 妻を失った悲しみと、憎しみという名の強い痛み。
 その鮮烈さだけで生きてきたのだ。
「愚かだね」
 何か白い札のようなものを扱いながら男が言った。
「……んだと?」
 今の言葉を口に出していただろうか。
 意識が朦朧として、何だか全く分からなかった。
「そなたは酷く愚かな人間だね」
 言われた言葉にヒルトは苛立つ。
 低く唸るように声を上げた。
「てめぇ、誰に向かって言っているのか分かっているのかよ?」
「ヒルトという男だよ」
 男が立ち上がる。
 それがまるで幻影のように揺れる。存在自体が曖昧なように見えた。
「自分でもわかっておるというのに、気付かないふりをしている。これ以上愚かなことはないよ」
「……何の話だ」
 ヒルトは上半身を起こす。
 傷の痛みは先刻よりずっと和らいでいる。むしろ痛みなんか感じないほどだ。それなのに心臓が奇妙な音で鳴り響く。
 くすくすと笑う声が妙に苛立たせた。
「死ぬわけにはいかない、そなたはそう言った」
「俺は王だ。こんなところで死ぬわけには」
「王でなければ死んでもいいのかね?」
「……!」
「私には、そなたが死にたがっているように見えるよ」
「そんなこと……」
「あるわけがない。赤い髪に、誓って言えるかね?」
 揺れた男の姿が一瞬カサンドラに見える。
 反射的に武器を拾い構える。
 男の武器だっただろうか、自分の武器だっただろうか。
 金色に輝く剣を掴み大きく振りかぶった。
「……っ」
 当然避けるものだとばかり思っていた。
 男は避けなかった。
 だが、斬ったという感触も無かった。
 金色に輝く剣は確かに男を斬り貫いてはいたが、まるで幻でも斬っているかのように感触がない。
 指先が震え剣を握っていられなかった。
 ヒルトが手を離すと剣はゆっくりと男の身体に、まるで水面に浮かんだ泡が弾けるように消えた。
「助けられなかった」
「……黙れ」
「救えなかった、手を握っていられなかった。どうせ死ぬのなら何で俺の方ではなかったのか、何故俺を庇ったのか、そもそも何で魔物が襲ってきたのか」
「うるせぇ、黙れ!」
「痛みを忘れるためにただがむしゃらに振るう剣では、何も救えぬよ。立ち上がる事すらかなわない」
「!?」
 突然腰の力が抜けた。
 まるで男の言葉が現実になってしまったかのように立ち上がる事が出来なくなった。
「てめぇ! コラ、なにしやがる!」
 魔法使いの魔法にかけられた。
 そもそも、敵か味方かも分からないこの男を信じてしまったこちらが悪いのだ。むしろこの男自身魔物だったのかもしれない。
 全身がじっとりと汗ばんだ。
 恐怖だろうか。
 身体の奥が震える。
「矛盾ばかりで子供のようだ」
「何だとっ!」
 叫んでヒルトは口を押さえる。
 自分の声ではなかった。
 否、自分の声ではあったが今のヒルト自信の声ではなかった。もっと幼い子供の頃の声。
「一思いに楽にしてやろうかね」
 男の手のひらに金色の剣が浮かぶ。
 奇妙な色を帯びた剣を男が構える。
「やめ……」
 言葉はそれ以上続かなかった。
 真っ直ぐ投げられた剣がヒルトの身体を貫いた。

>>続く

終わり無き冒険へ!