Novel:07 『うたかた』 2/5
目を覚ますと暗闇だった。
ヒルトは不自然な格好のまま僅か光の差し込む方向を見上げた。
どうやら野獣の大群に追われ狩りながら逃げているうちに足を滑らせ岩の隙間に挟まるように落下してしまったようだ。
どれだけ意識を失っていたのだろうか。
まだ外に辛うじて明かりが見える所からそれほど時間は経っていないと思える。
「……くそ、いつの夢だ」
毒づいて彼は身を起こそうとする。
しかし、不意に足に痛みを感じてヒルトは顔を顰めた。
暗い為に足まではっきり見えないが、この様子だと骨が折れているか良くてひびが入っているのだろう。
とんだへまをしたと彼は奥歯を噛んだ。
恐らくこの傷が原因であんな夢を見たのだろう。
痛みが気を滅入らせ、古い記憶を呼び覚ましたのだ。
妻カサンドラが自分に対して「死ぬな」と言った時の夢。あれから幾度も彼女と共に戦に参加してきたが、あの言葉はあれが最初で最後だった。
多分その言葉は一度だけで十分なのだと彼女は思ったのだろう。
その誓いは今も破られてはいない。
「……さて、どうしたものか」
ヒルトは腕の力だけで体勢を整える。
いっそ足を切断してここへ置いていくべきだろうか。障害になるものなら切り捨ててしまった方がよほどいい。しかし、まだ完全に使い物にならないとは言えない。判断を誤り必要なものまで切り捨ててしまうのは阿呆のすることだ。
ぐるぐると獣が唸る声が聞こえる。
上の方からぱらりと砂が落ちてきた。
「俺を食らうつもりか、てめぇ」
恐らく血の匂いをかぎつけて来ているのだろう。
弱って気を失っている人間は野獣たちにとって格好の餌なのだろう。
それでも降りてこないのは場所が複雑だからなのか、あるいは他に理由があるのか。
「……出来りゃその理由はごめんだな」
ヒルトは皮肉たっぷりの笑みを浮かべて先に続く暗い通路を見た。
冷たく澱んだ冷気のような流れがそこから漂っている。
恐らく、いるのだ。
この奥に、野獣たちも怯えて近づきたくない何かが。
「一匹ならそっちを狩った方が得。複数なら上の連中を相手した方がマシ。……さて、どっちだ?」
ヒルトは壁で身体を支えながら立ち上がる。
痛みは強いが歩けないほどではない。
この程度の痛みなら戦場でいくらでも感じていた。あるいは痛みが強すぎて麻痺をしているのかも知れない。
この状況でも武器を離さないでいたのは武人としての習性だろうか。槍を支えにすると随分と楽に歩けた。
暗がりを進んでいくとだんだんと何かの気配が強くなっていく。
やがて開けた場所へ出たその瞬間ヒルトは硬直した。
夢か幻か。
そのどちらかであることは分かる。
だが動く事が出来なかった。
「……カサンドラ」
呼ぶと女が笑う。
浅黒い肌。気の強い眼差しを持ち、赤い髪を編み込んで一つに垂らした女。
「ようやく来たな、ヒルト」
「……てめぇ、誰だ」
ヒルトは低く唸る。
こんな所にいるわけがない。これはカサンドラではない。
彼女は四年以上も前に、
「何言ってるんだ、ヒルト、おれの顔忘れたのか? それとも思い出したくなかったのか? そうだよな、おれはお前に殺されたようなものだからな」
「っ!」
違う。
彼女はそんなことは言わない。
分かっていたけれど、反応が遅れた。恐らく自分の中で彼女に対して後ろ暗い感情を持っていたのだろう。
四年以上も前に死んだ妻の姿をしたそれは、触手のようなものをヒルトに向かって突き立てた。
「……っち」
よけ損ねたヒルトは方を貫かれる。
反射的に槍を振った。絡まったツタのようなものがぶちぶちと音を立てちぎれ、地面に転がった。それは暫く蠢いていたがやがて動かなくなった。
妻の顔をしたそれが勝ち気な笑みを浮かべる。
ヒルトは次の攻撃に備え、力で少し曲がってしまった槍を構えた。
「‘炎よ、其を払い道を開け’」
声とほぼ同時だった。
高くから降ってきた言葉に応えるように、一帯を炎が駆けめぐった。カサンドラの姿をしたそれがもがき苦しむような顔を見せる。
その瞬間、それとヒルトとの間に何かが落ちてきた。
初め灰色の塊のようにも見えたそれは、人だった。小柄で女ほどの背丈くらいしかない。ヒルトと並ぶと軽く頭一つ分は低い。
それでも女と間違えなかったのは赤く輝いた瞳の鋭さ故だろう。黄金色に輝く剣を持った男はちらりとヒルトの方を見やって言う。
「浅黒い肌に頬に十字傷……、そなたがアドニア王ヒルトであるな?」
「誰だてめぇ」
「ジル……いや、シュゼルド・シウという。旅の魔剣士だよ」
男はヒルトに背を向け剣を構える。鞘のように見えるが、それは鞘などない全体が黄金で出来た剣だった。
「そなたの家臣とやらに泣きつかれてな、そなたを捜しに来た。一国の王をこのような場所で死なせる訳にはいかな………」
「そうだ、死ぬわけにいかねぇ!」
叫んでヒルトは男の腕を掴む。
細く少し力を込めたなら折れてしまいそうな軟弱な腕をしていた。
「だからてめぇのその武器よこせ!」
「そなたにはこの剣は扱えぬよ」
「何言ってんだよ、おめぇのそのほっそい手よか俺が使った方が」
言いかけてヒルトは反射的に真横に飛んだ。
男の手を離し忘れた為に、男も一緒に飛んでくる。
今まで彼らがいた場所を無数の触手が鋭く貫いて来た。
彼が苦痛に呻いたのが聞こえた。反射的にヒルトは自分の身を下にして男を庇うように抱き込んだ。
肩も細い。
筋肉すらない華奢な体つきだった。
「馬鹿者、手を離さぬか」
「てめぇ、その華奢な身体でどう戦うつもりだよっ!」
「魔法使いには魔法使いの戦い方というのがあるのだよ」
ごう、と何かが扇がれるような音と共に炎が暴れ出す。
触手の先が焼き払われ身を引いた。
「木の魔物だよ」
ヒルトの身体の上から起きあがりながら男が言う。炎を見つめている為かその瞳が先刻よりも赤みを増して見えた。
「人を惑わし捕らえ養分にする。さぁ、私をどう惑わせるつもりかね?」
カサンドラの姿だったそれの姿が歪み、黒髪の美女の姿に変わる。
だが決めかねたように今度は三十代くらいの男に変わり、銀髪の子供の姿になる。赤い髪の青年の姿になったかと思えば、今度は薄く落ちた金髪の男の姿に変わる。
めまぐるしく変化していったそれはやがて獣混じりの男の姿に変わった。
年の頃は四十代半ば、精悍な顔立ちの男だ。
「……ルド、どうして俺を殺した?」
男の言葉にシュゼルドはにこにこと笑う。
どこかぞっとするような笑みだった。
「おやおや、ラファの姿になるとは、私の心を読んだ癖に、その程度しか分からぬのかね?」
「お前と俺は友だったはずだ。森で俺はお前に誓ったはずなのに」
「その言動は似ても似つかない。あれは私を信じていたから、はずなどとは口が裂けても言わぬ」
男は笑顔のまま剣を構える。
「友への冒涜は許さぬよ」
「ルド………!!!」
微笑んだ男は躊躇いもせずにそれに向かって斬りつけた。
鈍く輝きを帯びた剣から一条の光がこぼれる。
剣から放たれた力が獣人の姿をした魔物をあっさりと引き裂いた。
>>続く