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 壁を壊せないと見たのか、黒い手は標的を少年へと変えたようだった。ざわざわと地面を這いながら少年の足元へ近付いていく。
 少年が気にはなったが、アリスは言われたとおり歌い続けた。

― 衣嚢にゃごほうびの麦がある。

 アリスの歌に合わせて、少年の指がパチリと鳴った。音と同時に手の中に現れたカードを均等に扇形に広げ、大きく腕を振リ払うようにして投げつける。
 クラブのスートが描かれたカードが、彼の足元を這う手の指先からその木の根元に近い部分まで、まるで鋼鉄で出来ているかのような鋭さで突き刺さる。いや、いつの間にかそれらのカードは、先端鋭い矢となって黒い手を地面に縫い止めていた。

― 二十四匹の黒つぐみ、焙じこまれて、パイの中。

 黒い枝が、怒り狂ったようにのたうちまわる。すると、矢の突き刺さった部分からメリメリと音を立てながら枝が分離して、いくつかの破片になった。
 細かい破片になっても、黒い枝はそれぞれに意思があるかのようにのたうち、一部を伸ばし、尖らせ、そして翼を広げるように起き上がった。破片の全てが、今や黒い鶫(つぐみ)の姿をしていた。

― パイがはがれたそのときに、すぐに小鳥がうたいだす。

 大きな羽音をたてて、黒い鳥達が一斉に灰色の空に舞い上がった。そして群れを成して、少年に向かって勢い良く舞い降りる。少年は怯むことなく、寧ろ逆に紅い瞳を悪戯っぽく煌かせながら薄く楽しそうに笑って、群れを受け止めるように腕を広げていた。
 鶫のその嘴が少年に突き刺さりそうな刹那。再びパチン、と指を鳴らす音が聞こえた。

― もともと王さまにそなえます

 同時に、地面から棘のある薔薇の蔓が何本も飛び出し、しゅるしゅると鶫達の周囲を覆っていく。蔓は縦に横にとあっという間に編みあがり、大きな鳥篭を作り上げた。既に全ての黒鶫が、その鳥篭の中に閉じ込められている。
 少年は、ハートのキングを口の端に咥えながら、その鳥篭の頂点に立っていた。
 ハラリとそのカードを落とすともう一度、パチンと指を鳴らしてスペードのエースを取り出す。そのカードは、光を帯びながら長く大きくなり、ひとふりの剣へと姿を変えた。少年が剣の柄をしっかりと握り、鳥篭から軽やかに飛び降りる。彼の着ている燕尾服の裾が、ふわりと翻った。

― きれいなお皿じゃ、そりゃないか。

 アリスがそのフレーズを歌い終えるのと同時に、少年は華奢な腰をしなやかに捻り、その反動を利用して鳥篭をなぎ払うように切断した。少年の足がとん、と地面に降りると同時に、真っ二つになった鳥篭が鶫達 諸共に霧散した。

 キン、と耳が痛くなるほどの静寂があった。

 静けさの中、アリスが詩の続きを歌う必要があるのか悩んだ次の瞬間。ピシリ、ピシリッ、と何かにヒビが入る音が聞こえた。はっと、アリスが目をやると、少年が鳥篭を切りつけたまさにその場所。灰色の空に、彼の太刀筋に沿ったような亀裂が入っていた。
 最初は僅かに破片を零すだけだったが、やがてその亀裂はどんどん広がり、景色の全てにヒビを入れた。
 そのヒビが内側から押し上げられるように、ぐっと盛り上がる。
 少年が、もう一度指を鳴らした。

 パリィン!

 景色が弾け、亀裂の隙間から何か白いものが無数に飛び出してきた。それらは空を飛び回り、残された景色を嘴でつついてヒビを入れていく。ばさりと羽ばたくと、白い羽根が雪のように舞った。
 白い鳩だ。沢山の真っ白な鳩が、飛び出してきたのだ。
 やがて陰湿な空が、黒々とした木々が、あんなにもどこまでも続いていた道が、全てただ一枚の絵だったかのように平たい欠片となり、ボロボロと剥がれ落ちていく。落ちた欠片は、地面でカシャァンと清涼な音を立ててさらに砕け散ると、その破片で地面を埋めた。

 アリスが呆然と見守るなかで、灰色の世界はどんどんと剥がれ落ち、見慣れた夜の世界がその姿をあらわにしていった。
 濃紺のベルベットを広げたような深い夜空。空を飛び回っていた白い鳩達は、灰色の世界を全て砕いてしまうと、その夜空に向かってぐんぐんと舞い上がっていった。小さな点のような姿になるまで飛んでいく。
 あの鳩達は、星になるのだわ。とアリスは考える。現に、鳩達が姿を消す頃には、夜空で可愛い綺羅星達が瞬き始めていた。爽やかな風が吹き、アリスと少年の髪に絡まって遊びながらすり抜けていく。
 正面には大きくて、けれど控えめな光を放つ月が浮かんでいた。

 こんなに近くで月を見るのは初めてだ、とアリスは思う。

 少年が振り返ってアリスを見た。既にアリスを守っていた壁も消えている。
 月を背に逆光となって少年の表情はよく見えなかったが、彼が微笑んでいるのが何故か分かった。月の光と、少年の笑顔が重なる。彼の金の髪が月の光に、そして黒の燕尾服は夜空にそれぞれ溶け消えていくように見えた。
 アリスの胸が高鳴る。最初からずっと彼から感じていた懐かしさに、胸が締め付けらるような気分だ。思わず手を伸ばすと、少年がその手をしっかりと掴みとって引き寄せ、凛とした声で言った。

「もう大丈夫。君の悪夢は終わりだ」

 少年は、ゆっくりと腕を上げて、空いた方の手で目の前の道を指差した。
 道は白く仄かに輝いている。先ほど敷き詰められるように砕け散った破片が、月明かりを反射して輝いているのだ。

「ほら、この道を行けば、君は家に帰れるよ」

 繋いだ手は温かい。少年の言葉を信じて、アリスは頷いた。

 その道は、まっすぐ月に向かって続いているようにも見えた。

I see the moon,
And the moon sees me;
God bless the moon,
And God bless me!