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カツンとかかとを鳴らして少年が立ち上がった。アリスは慌てて少年の袖口を引く。
「ねぇ、待って」
 少年が穏やかな表情で、何だい、と問いたげにアリスを振り返った。
「あの道を行くの?」
 だけどアリスは微笑みを返すことも出来ずに、不安そうな声で聞く。
 アリスの視線が示したその先にあるのは、鬱蒼とした木々の茂る並木道。先程までアリスがずっと歩き続けていた道だ。こうしてアリスが一人ではない心強さを得た今でさえ、木々からはただ静かな不気味さだけが伝わってくる。黒々としたその道の先はどこまで続くのか・・・今度こそ、飲み込まれて出て来られないかもしれない。
 こうして歩みを止めてしまった今。できることならば、もう進みたくない道だった。
「勿論」
 だけど、少女の不安に動じた様子もなく少年は微笑みで返す
「今、ここにある道は あの道だけだからね」
 確かに周囲も全て黒い木々に覆われたこの場所。木々の隙間を抜けようとしても、直ぐに細かい枝に先を塞がれてしまうような状況では、目の前の道を進むしかこの場から動く方法はない。
「でも」
 アリスは足を踏み出せない。
「でも あの道は・・・・・・」
 そうだ、そもそも少年自身が指摘した筈だ。アリスがずっと同じ場所を歩いていたことを。ならば道を行けばまた、この場所に戻ってきてしまうだけではないだろうか。あの道に先はない。ただ迷うだけなのだ。
「・・・・・・」
 少年は静かに アリスを見つめた。アリスの不安を見て取ったのか、励ますようにその肩にそっと手を置く。
「見ている物が同じでも」
 一度ゆっくり瞬きをしてから、少年が言葉を紡いだ。
「見えている物までが いつも同じだとは限らない」
 アリスは少年を見上げた。
 今度も少年の言葉は抽象的で、意味が理解できなかったのだ。
「・・・・・・?」
 だけど 少年は真っ直ぐ道の先を見つめていて、アリスの瞳を見ていなかった。
 しばらく二人は無言のまま、足を踏み出すこともなくその場所に留まっていた。アリスは居心地の悪さを感じたが、どうすることもできずに少年の言動を待った。
「気をつけて」
 正面を見ていた少年が 不意にアリスに声をかけてきた。紅い瞳がすっと細められ、肩に置いた手にわずかばかり力が込められる。
「悪夢に惑わされないように」
 警告の言葉ではあったが、少年の口調にはどこか楽しんでいる響きすら感じられた。アリスは少年の視線の先に 自らの視線を合わせた。
 同じような形の黒い木々が並んでいるばかり・・・と、木々の隙間で黒い影が動いた。何かが居る?
 目を凝らしてそれを確かめようとして、アリスは驚きに目を見開いた。
 動いているのは何か、ではない。黒い木そのものだったのだ。
 今までどっしりと空間に重く根付いていたあの木々が。どれだけ望んでも一切の変化を見せなかったあの木々が。風もないのにざわざわと意思を持つ生物のように蠢いている。歪な形に張り巡らされた枝の、その節くれ立った部分が奇妙にあちらこちらに折れ曲がる。灰色の空を埋め尽くすかのように枝が重なり合い、まるで二人の行く先を阻むかのように強固な壁を作り上げていく。
 いくつかの枝先がぐっと地上までしな垂れて、何かを探すかのように枝先で地面を這い回っている。
 一体何が起ころうとしているのか。アリスは無意識のうちに少年の腕にしがみ付くような格好になりながらも、その様から目を離せないでいた。
 やがて不規則に伸びていた枝のいくつかが 突然頭上に伸び上がり、またいくつかが収縮し。苦しみにのたうつようにうねりながら みるみると形を変え始めた。
 太い幹から伸びているものは。今や紛れも無く人の手の形をしていた。ただ、人の手よりも何倍も大きく、そして墨のように真っ黒で温かさなど微塵もない。人を握りこんでしまうことなど容易いだろう。
 それは、一度 ぴしりと動きを止めてもとの木の枝の硬質さを取り戻したかのようだった。だが次の瞬間、鞭のように撓って少年とアリスに向かって枝を伸ばしてきた。
「・・・・・・!!」
 驚きと恐怖のあまりに、アリスは声もでない。
 鋭い爪を持った指が広げられ、恐ろしいスピードで二人の眼前に近付いてくる。彼らを掴み取ろうという意思があるのが明らかだった。
 アリスは逃げ出すこともできずに、だけどその瞬間を視界におさめる勇気もなくて ぎゅっと目を瞑って少年の腕に顔を伏せた。あぁ、あの爪で貫かれたらそれはそれは痛いだろう。

 ガァン、と衝撃音が周囲に響いた。

 アリスは体を強張らせたが、音の大きさに反して体には何の痛みも感じない。黒い手につかまれるどころか、その指先でさえアリスには触れてきていないのだ。
 おそるおそる目を開く。アリスの視界に、少年の背中が映った。アリスが僅かに身を引くと、彼がアリスを庇うようにして立っているのがわかった。彼が自分の変わりに一人で攻撃を受け止めたのだと思った。
 一瞬青ざめたものの、少年のさらに目の前に薄く光り輝く壁があることに気づいた。透き通っていて一見ガラスのようだが、それは不思議な光沢を持っており角度と光の加減で時折 虹色に輝く。
 先程の音は、その壁にぶつかった時の音だったのだろう。黒い手はその壁に阻まれていた。細長く尖っていたその爪先は壁の中心で弾かれて裂け、放射線状に折れ曲がっている。
 くすり、と少年が小さく笑いを零した。
「他愛無い悪夢だね」

 いつの間に取り出したのか、少年は片方の手のひらで一枚のカードを閃かせた。人差し指と中指の二本の長い指でそれを挟み、口付けるように唇に触れさせる。返すときに、カードの模様がアリスに見えた。
 トランプの、ダイヤの四。
「ダイヤは盾さ」
 アリスの不思議そうな顔に答えるかのように、少年が言った。

「ねぇ、アリス?」
 教えたわけでもないのに、少年がアリスの名前を呼んだ。
「歌を歌って」
 突然の彼の言葉に、アリスはいささか面食らう。
 歌?こんなときに歌?一体何故?
 壁に張り付いていた黒い手は、再びざわざわと動き始めている。またいつ、こちらに攻撃してくるかわからないというのに。意図が測りきれずに、アリスは少年の顔を訝しげに見上げた。
「悪夢を追い払いたいなら、楽しいことを考えるのが一番なのさ」
 アリスの顔を見て、少年は飄々と答える。
 そういえば先ほども、少年は悪夢という言葉を使った気がする。アリスには聞きたいことがいくつかあったが、彼はアリスの言葉を待たずに先を続けた。
「ほら、向こうは待ってくれなさそうだけど」
 少年の言葉通り、裂けた枝を再び捻りあわせるようにしながら黒い手が再び形作られていく。
 でも、何を歌ったらいいの?と問うアリスに、なんでもいいのだけれど・・・と少年が少しだけ首を傾げた。指が一度だけ顎をなぞる。
「そうだな・・・六ペンスの歌がいい。知っているかい?」
 アリスは無言で頷いた。マザーグースの中でも、良く知られている詩だ。彼はすっと屈んで、アリスに顔を寄せて耳元で囁いた。
「僕は少しだけこの場を離れるけれど。君のことは必ず守るから。何があっても歌を止めないで」
 きっと大丈夫だから、と少年は微笑んだ。全てを明るく照らし出し、元気付けるような太陽の光とは違う。穏やかで優しい、月の光のような微笑みだった。アリスの心臓が一回だけ大きく鳴った。

 深呼吸をして、緊張を沈める。
 既に黒い手はすっかり元通りになって、こちらの動きを伺っているようだった。少年が背中越しにアリスをみやる。アリスは意を決して、声を出した。
「うたえうたえ・・・」
 その瞬間、二人の目の前の壁がパキィンと甲高い音をたててバラバラに砕け散った。それを好機と見たのか、黒い手が二人に再び襲い掛かってくる。
 少年がアリスを残して高く飛び上がったが、黒い手は尚も真っ直ぐにアリス目掛けて進んできた。アリスは一瞬怯んだが、それでも少年を信じて歌を続けた。少年が何かを投げる仕草をした。

― うたえうたえ、六ペンスの歌を。

 ガンッ
 迫ってきた黒い手が、アリスの目の前で弾ける。新しい壁が、アリスの周囲を覆うように現れていた。キラキラと輝く虹色の光を浴びながら、一枚のトランプがハラリとアリスの足元に落ちる。
 ダイヤの十だった。

I see the moon,
And the moon sees me;
God bless the moon,
And God bless me!