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その道にはもう、不安など翳りもなかった。
地面には月明かりを反射して輝く白い石が敷き詰められて、その両側には可憐な星のような花が咲き並んでいる。立ち並ぶ木々は鮮やかな葉や実をつけており、時折、花を咲かせているものまであって目を楽しませてくれた。
アリスは駆け出したい気持ちになりながら、でもその景色を通り過ぎてしまうのは勿体無い気がして、ゆっくりと歩いた。そして何か目新しいものを見つける度に、それを指差して少年に教える。
少年はアリスの少し後ろを歩きながら、アリスの言葉の一つ一つに耳を傾け、そして微笑を返してくれるのだった。そんなことが、なんだか嬉しい。
「あら?あれは・・・」
何かが空を飛んでいるのを見つけて、アリスは首を傾げた。小さな白い影が二つ。それらはこちらに向かって、ゆっくりと飛んでくる。
「鳩だわ。星にならなかったのかしら?」
アリスの言葉通り、空から真白の鳩が二羽舞い降りてきた。二羽は、少年の左右の肩にそれぞれちょこんととまる。
「どうしたのさ。君達も、一緒に行きたいのかい?」
少年が問うと、そうだとでも言わんばかりに少年の頬に擦り寄った。
「そう・・・ならば一緒においで」
少年がくすぐったそうに笑いながら言った。アリスはどきりとする。今までずっと、少年は影のある大人びた表情ばかりを見せていたのだが。今の笑顔はアリスの良く知る少年達と変わらないような、無邪気な笑顔だったのだ。
じっと見詰められていることに気づいて、少年がアリスに向かって何?と微笑んだ。
「ねぇ、あなたは、誰?」
答えが得られなかった、始まりの問いを、アリスはもう一度繰り返した。鳩達が少年の肩から飛び上がり、二人の頭上をくるくると旋回する。
少年は、今度は困ったような顔をして、次に寂しそうに微笑みながら無言で首を振った。
「僕にもわからない」
「自分のことなのに?」
「うん」
「名前も?」
「・・・うん」
その切なげな様子に、アリスが次を聞けないでいると、暫く考えるように黙っていた少年が自ら口を開いた。
「僕は、名前を忘れてしまったのさ。
僕の名前を呼んでくれていた者達が目の前から消えてしまった時に、僕は名前を失ってしまった」
でも、もうきっと必要ないんだよ。だって、名前を呼んでくれる人はどこにもいないのだからね。囁くように少年は呟いた。その顔は無表情だったけれど、それはただ、苦しいのを堪えているだけのように見えた。
アリスは聞いてはいけないことを聞いてしまったような、申し訳ない気持ちになりながら、それでも口を開いた。
「そんなことないわ。だって、私は・・・私はあなたのこと、ちゃんと名前で呼びたいもの」
少年が驚いたように目を見開く。
「でも君は・・・」
少年の消え行く言葉を遮って、アリスは力強く言った。
「大丈夫。きっともう一度会えるでしょう?」
力なく垂らされていた少年の両手をとって、しっかりと握る。
「そうだね、会えるよ・・・・・・君が僕を忘れてしまわない限り」
少年が自嘲気味に言葉を吐いた。
「私、忘れないわ。あなたのこと」
アリスの澄んだ青空のような瞳が、少年の戸惑いの表情を映す。瞳に映った顔の眉根が寄せられてゆっくりと目が閉じられた。そして掠れた声が呟く。
「・・・有難う」
アリスがにっこりと微笑むと、少年がつられて口元を緩ませた。
ふと、アリスは自分たちの周囲が仄かに輝き始めていることに気が付いた。ふわりふわりと、光の粒のようなものが、周囲を漂っているのだ。その光は少年の周囲に集まり始めて、彼の輪郭を不明瞭にしていく。
「あなた・・・消えてしまうの?」
アリスが問うと、少年が首を振った。
「いいや。君が目覚めるんだよ」
少年が視線をずらし、道の先を見た。アリスが忘れていた道の先には、見慣れた扉が立っていた。
「私の部屋のドアだわ・・・!」
彼女の家の子供部屋の扉が、道の先に立っているのを見つけて、アリスは思わず声を上げる。扉は薄く開き、神々しい光がそこから差しこんでいた。体が、アリスの意思に反してその扉に吸い寄せられていく。ただ、少年はずっと立ち止まったままだった。
アリスと少年の距離が開く。アリスが手を伸ばすと、少年がゆっくりと首を振った。
「僕はそちらには行けない。帰る場所はそこにはないんだ」
だからさよなら、と少年は言う。寂しそうな表情に胸を突かれながら、アリスは少年に向かって叫んだ。
「ねぇ、私、思い出したの。ずっとあなたに初めてあったような気がしなくて懐かしくて・・・どうしてか、ずっと考えていたのだけれど」
体はぐんぐんと扉に近付く。扉から差し混む光が、少年の姿を・・・この夢の世界をかき消していく。かわりに、現実での記憶が明瞭になって。思い出したの、とアリスは続けた。
「似てるのよ、あなた。ううん。きっとあなたが、そうなんだわ」
少年は今、どんな表情をしているのだろうか。
「絵本よ。私のお祖母様が描いた絵本の主人公が、あなたにそっくりなのよ」
何度も読んだ絵本。きっとこれからも。だから、私があなたを忘れることはないわ、とアリスは叫んだ。光に埋れてしまって、既に少年の姿はアリスからは見えない。
「私はここに居るわ。あなたの帰る場所がないというなら・・・私があなたの帰る場所になるから」
だからきっと、次までに名前を思い出しておいてね、という言葉は最後まで届いただろうか。
夢の扉が閉ざされて、アリスの一夜の夢が終わった。
アリスは目覚め、そして少年は夢の中に残った。だけど、彼らは再び夢の中で出会う。
これは彼らの出会いのお話の終わり。
少年と少女の物語の始まりだった。
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