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そこは昼でも夜でもなく、曇天の空とも違う不安定で不気味な灰色の景色が延々と続く奇妙な空間だった。
空に地上を活気付けてくれるような輝かしい太陽の光がなければ、優しく温かく見守るように照らしてくれる月の光も、お喋りで可愛らしい綺羅星達の姿さえも見えない。
地上には葉の一枚もない枯れ木のように真っ黒な木々が雑然と、あるいは整然と並んでいる。その木々の並びは尽きることなく、きっとどの方向を切り取っても全く同じ景色になるに違いなかった。人の心など目で見たことはないが、不安というものを形にするならばこの風景ほど相応しいものはないだろう。
気が付くとアリスは、そんな木々の合間にある細く曲がりくねった道を、たった一人で歩いていたのだった。
しかも寝間着姿のまま。
一体いつから、どのくらい歩いているのか、彼女は全く覚えていなかった。
そもそも何故、この場所を歩いているのかさえも心当たりがないのだ。だけど足を止めると、何か良くないものが背後から追ってくるような気がして。アリスはひたすら足を動かして前へと進み続けた。方向感覚などここに来た最初から失ってしまっているのだから、本当にそれが「前」なのかは怪しいところだったけれども。
進まなくては、進まなくては。この道を歩いていけば、いつかきっと家に帰り着く筈。
アリスはそう信じていた。だって今まで、彼女が道を歩いていて家に辿り着けなかったことなど無いのだから。いや、迷子になっても必ず誰かが彼女を迎えにきてくれた。もしかしたら今日も、この道の先で見知った顔がアリスを見つけてくれるかも知れない。
しかしアリスの期待とは裏腹に、景色が変わる気配は一向に訪れなかった。どれだけ先の方を見据えても、目に映る景色は同じ。灰色の空と陰湿な木々ばかり。
何度か道の先の方に何か見えたような気がするのだが。それが何かと確かめようとする度に視界はぐにゃりと歪み、アリスが目を瞬いている間に黒い木々が覆い隠してそれを見えなくしてしまうのだった。
足の下で地面を踏みしめているという実感はない。それなのに何かが絡みついているかのように足は重く、アリスが歩くのを邪魔してくる。それでも、彼女は前へ進みたかった。歩かなくては家に辿り着けない。家に帰りたい。
だけど不安だけはアリスの心の中でどんどんと膨れ上がり、その小さな体からあふれ出そうとしていた。そんな不安に押し潰されて足を止めてしまったら、アリス自身がこの黒い木々となり風景の一部になってしまうのかも知れない。
そんなことを、考えた時だった。
「君は一体、どこへ行くの」
誰かが居るとも思っていなかったところを突然話しかけられたので、アリスは驚いた。声が聞こえた方を振り返るが、最初は相手がどこに居るのか分からなかった。しばし彷徨った視線は、やがて一本の木の上で止まる。
黒々と節くれだって張り出した一本の枝の上に、一人の少年が悠然と腰をかけていた。長い足を組んで、居心地の悪そうな枝の上にも関わらず、危なげなく器用に寛いでいる。
少年が纏っているのは、木々と同じぐらい真っ黒の燕尾服。白いシャツに白い絹の手袋。深く被ったトップハットの庇の影から、紅い瞳が覗いてアリスを静かに見下ろしていた。暗い色彩の中、彼の赤い瞳と、零れる金の髪がやけに眩しく思える。
「あなたは誰」
アリスの当然の問いに、少年は微笑みだけを返した。その笑みは容姿に似合わず、随分と大人びている。
「君は 迷子だね?」
誰と聞いたのに、逆に確認するように少年から問うてきた。その声は抑揚なく無感情。張り付いたような微笑のまま、のんびりと発せられた。
アリスは押し黙る。彼女自身、良くわかっていないのだ。
「何回 この場所を通ったか 覚えているかい?」
その言葉に、アリスは弾かれたように顔を上げる。
ずっと、同じような景色の場所を歩いているのだと思っていた。だけどそうではない。本当に同じ場所を歩いていたのだと、そこでアリスは初めて知ったのだ。
「僕の数えた限りでは ちょうど時計の針が 一日を刻むぐらい、君はここを歩き続けていたことになる」
少年は淡々と告げる。彼の例えでは明確には理解できなかったが、一度や二度程度ではないのだろうと分かった。
アリスは自分の衣服の裾をぎゅっと握り締める。
「・・・どうしてなの?」
小さくかすれた声が、アリスの口から零れた。
だけどその声の頼りなさとは裏腹に、アリスの青い瞳は真っ直ぐ少年の瞳を見つめ返す。
「私は 帰り道を探していたの」
前に進んでいると、そう信じて歩き続けてきた。
「だけど」
これが本当にずっと同じ場所を歩いていただけだったのならば。
「いくら歩いても辿り着けない」
そんなの当然だ。
「道は一つなのに 帰り道が見つからないの」
なんて滑稽なのだろう。初めから・・・ここには、この世界には帰り道など存在しなかったのだ。
「私はただ・・・・・・」
不安を声にすると、まるでそれが形になったかのように、重く圧し掛かってくる。ずっと我慢していたものが、押し出されて溢れ出した。
「帰りたいだけなのに」
言葉と一緒に、ぽつり、と一粒の涙が地に落ちる。少年は僅かに驚いたような表情で、地に吸い込まれ行く涙を見降ろした。
本当に、この少年が全く知らない相手ならばアリスはこんな風に泣き出したりなどしなかったかも知れない。だけど彼は・・・初めて会った筈なのにどこかとても懐かしいのだ。甘えてしまってもいいような気分にさせられる。
最初の涙が伝った場所をなぞる様に、後から後から溢れる涙が流れ落ちて止まらない。その筋をじっと静かに見つめながら、少年は何か逡巡する様子を見せた。
やがて、ふわり、と少年が地面に降り立つ気配がした。まるで風のように軽やかに、影のようにひっそりと。
少年は背が高く、アリスの頭は彼の腰の辺りにあった。少年がアリスと視線を合わせるように腰を曲げて屈む。そっと、手が差し伸べられて、ひたと、アリスの頬を包むように添えられた。
「泣かないで」
慈しむような優しい声音で囁きながら、少年が白い手袋の親指の腹でアリスの涙をそっと拭う。
「道が無いから迷うんじゃない」
ゆっくり、だけど力強い少年の声が、アリスの頭に凛と響く。
「迷うから道が無いんだ」
それでもアリスは泣き止むことが出来ずに、小さな嗚咽を漏らした。少年は尚も優しく続ける。
「僕は 夢を支配することはできない
けれど 僕は 道 を知っている
だから 大丈夫
君の帰り道は直ぐに見つかるよ」
寄せては返る海のように、穏やかなリズムを崩さない口調で少年はアリスを励ました。彼の声は、アリスの体に心地よく染み渡る。 そしてアリスの頬に添えられた手から布越しに、少年の体温がアリスにじんわりと伝わってくる。それは、とても温かかった。アリスは次第に落ち着きを取り戻し、その涙も僅かな雫程度になっていった。
「確かにここは悪夢の中だけれど
不安になる必要はないんだ
だって ここには」
「ここには 僕が居るのだから」
ふわりと包み込むような気配がして、少年の唇がアリスの額に触れた。
「さぁ、泣き止んで」
「一緒に帰り道を探そう」