人気の無くなった街路を、雪の上に一つ一つ足跡を残しながら一つの人影が歩いていく。夜の街はすっかり寝静まっていて、灯りの見える家も殆どない。雪のちらちらと降る中、空も雲に覆われて。だけどその足取りに不安定なところはなく、しっかりと確実に前へと進んでいく。
人影の向かう先には小さな教会があった。
扉にはランプが一つぶら下がっていて、灯りが燈されている。暗い街の中、そのささやかな光はとても温かく、安心できる気がした。
その人物は鉄の門扉を開き、数段の階段を昇って扉の前に立った。
光の元に照らし出されたのは、一人の少年。
透けるような白い肌に、月の光のように淡い光を放つ金の髪。瞳は影に隠れて見えないが、口許は柔らかく結ばれている。着ているのは、雲の無い日の夜空のような色の燕尾服にシルクハット。この寒さの中、コート一枚も羽織っていない。その手には、白く大きな袋が握られていた。
彼は教会の扉をしばらく見つめてから、そっと空を仰いだ。
雪片がいくらか彼の顔にかかったが、気にする様子は無い。
待つことしばし。
ひときわ大きな雪片が空から舞い降りてきた。
近付くにつれ、その雪片は2羽の白い鳩へと姿を変える。
少年は白い袋から手を放すと、両手を空へと差し伸べた。
2羽の鳩が吸い寄せられるようにその手にとまる。
「ここで、良いんだね」
少年が囁くように言うと、鳩たちはちょこんと首を傾げた。
「そう」
少年は鳩たちを肩に乗せて教会の扉に向き直ると、持ってきた白い袋を改めて扉の前に置いた。
鳩たちがくー、と喉を鳴らした。
「これが何かって?」
黒くつぶらな瞳が二組、少年に向けられる。
少年が薄く微笑んだ。
「・・・プレゼントだよ。ここの、孤児院の子供達への」
一匹の鳩が、金の髪を食(は)んでくいっとひっぱった。
っ、と少年が小さく息を漏らす。
「痛いよ、ダイア」
少年は軽く叩くようにその鳩を撫でて、わかってるよ、と呟く。
「仕事が違う、って言うんだろ?でも、これくらいいいだろう?どうせこの街で稼いだお金だ。いつもこうして使ってきたじゃないか」
そこで彼は一旦言葉を切って、首を竦めた。
「勿論、仕事だってちゃんとやるさ」
少年は白い袋に視線を落とした。
そのまま、じっと動かない。
肩の上の鳩がまた、くー と鳴いた。
「・・・自己満足だね。僕はこうして彼等を救ったような気分になっている」
少年は視線をそらさないまま、一人呟くように言った。
酒場での一件の後。
背を向けて姿を消そうとした少年を、牧師は手を掴んで引き止めた。
そして唐突に言ったのだ。
あなたは神の使いですか、と。
「なんだって?」
少年も思わず呆気にとられて、苦笑しながら逆に尋ねた。
「まさか。僕がそんな大層なものに見えるかい?」
だけど牧師の瞳は真剣だった。
少年が眉を顰め、ゆっくり首を振る。
「・・・悪いけど。気のせいじゃないかな」
「いいえ、確かに」
牧師はがんとして譲らない。
「あなたは幸運の白い鳩と言った。白い鳩は、神の使いです」
「それは只の偶然」
「人の子の偶然は、神の必然です」
少年は少しばかり辟易したような表情を牧師に向けた。
「僕は偶然通りかかって、偶々君たちの会話を耳に挟んで、少しばかり彼等に悪戯してみたくなったのと、時には慈善活動をするのもいいかなと思ったから、気まぐれに口を挟んだだけだ」
偶然、偶々・・・そんな単語を少年はわざわざ強調した。
そして、自嘲気味に笑いながら首を傾げる。
「それに・・・わかってるだろう?ギャンブルをする・・・況してやそこでイカサマする神の使いがどこにいる?」
「・・・・・・」
牧師は押し黙っている。
少年が言葉を続けながら、少しだけ前髪をかき上げた。
「神の使い?それとも天使?紅い瞳の天使もいるのかい?」
「外見は関係有りません。本質です」
少年の言葉に、牧師は即座に答える。
そして、ひたと目を見つめて言った。
「光が見えます」
「光?」
強い視線に、少年が初めてたじろいだ。
「あなたが私の背後に立ったときからずっと。あなたの輪郭を覆うような光が」
少年は目を見開いて呆然と口を開いた。
だが、その口から言葉は出ない。
牧師はしばらく真摯な表情を向けていたが、突然それを崩してふっと微笑んだ。
「少なくとも。あなたが私達を救ってくれたことに変わりはありません。有難うございます。私も、子供達も。あなたのおかげで今まで通りの生活を続けられます。あなたに・・・・・・神のご加護がありますように」
そう言って、牧師は軽く礼をすると足早にその場を去っていった。
少年はただ、その後姿を見守っていた。
動かない少年に焦れて、白鳩が再び髪を引っ張った。
少年は視線をどこかに彷徨わせたまま、そっとその鳩を撫でる。
シルクハットに、肩に。雪が少し積もって白くなっている。
虚ろだった視点が、その手に合わせられた。
唇が震えるように動く。
「・・・でも僕は・・・・・・神の子どころか、人の子ですらない」
誰にともなく彼は呟いた。
そして踵を返して、教会に背を向ける。
肩に鳩たちを乗せたまま、門扉を開いて教会の敷地を後にする。
来た時の足跡は降り続く雪に既に薄くなっていたため、
雪の上に点々と彼の帰りの足跡だけが続く。
突然その足が止められた。
鳩たちが顔を向けると、少年の顔は泣きそうな程に歪んでいる。
「・・・彼らのためにだって・・・?・・・僕は・・・僕はただ、自分の足跡を残したいだけじゃないか・・・」
掠れた声が雪の上に落ちて吸い込まれた。
最初はひっそりと、だけど最後は搾り出すように。
鳩たちが僅かに身動ぎする。
少年が顔を片手で覆って、力なく首を振った。
それと同時に、彼の目の前の空間がゆらゆらと揺らめき始める。
形の無い揺らめきは次第に輪郭を作り上げていく。
やがて、少年の目の前に大きく透明な扉が現れた。水のように不安定なそこには、虹のような光が映り、白い雪の上に輝く影を落とす。
鳩たちが舞い上がった。
少年が顔を上げないまま肩から体当たりをするようにして、その透明な扉を開いて潜りぬけた。だが、扉を潜りぬけたところで、その場には何の変化も無かった。
ちらちらと雪の降る、静かな夜の街に少年がただ一人。
彼はそっと顔を上げると、何事も無かったかのようにまた路を歩き出した。
彼の背後に、もう足跡は残らない。
やがて彼の姿が視界から消え。
不自然に 途中で途切れた足跡だけが、その場に残された。