アリスは再び 満天の星空の中にいた。
目の前には、あの少年が優しく微笑んで立っている。
少年の背後には、静かに浮かぶ満月が見える。
― あなたは誰。本当に魔法使いなの
少年は近くの星に手を伸ばした。
星は彼の腕の周りをくるくると飛び回った。
― 魔法使いか・・・似たようなものかもしれないけど・・・
少年は少し考えるようにしていた。
― どうやって夢の中に入ったの
アリスが首を傾げて問うと、少年は苦笑した。
― 逆だよ。僕は夢の中に入ったんじゃない
― そもそも、夢の中こそが僕の居場所なんだ
少年の腕の周りを飛んでいた星が 弧を描きながら離れて、瞬く星々の一つに戻っていく。
― どういうこと
アリスが少年を見つめる。
少年はアリスの瞳には視線を合わせず、腕を離れていった星の軌跡を追いながら目線を月へと移した。
― 僕は、月の光・・・夢の世界の住人だから
アリスも、少年の後ろの満月を見つめた。
月の光と彼の髪が零す輝きはとても似ている。
彼と月が重なると、溶け入ってしまうようだ。
― あなたは、夢なの
問いの答えは 痛いような笑顔。
― 僕は夢の一部で、夢を渡り歩くことで生きている
アリスは、初めて会ったときから少年が不思議な空気を纏っていることを感じていた。
だから彼が夢の中の住人だと聞いても特に驚きはなく、逆に当然のことのように受け入れた。
でも、
― 私は起きているときにあなたに会ったわ
― あの子猫だって
夢の中だけではない。
アリスは確かに少年の体温を感じていた。
― ・・・抜け出したんだ
― 夢の外でならば・・・誰か僕のことを覚えてくれているのではないかと
― 期待して、夢を抜け出した。ずっと、何度も
何度も、と呟くように繰り返してから少年がアリスへ顔を向けた。
― 僕は、夢だから。目覚めたら消えてしまうから
頭の上のシルクハットが月の光を受けて影を作り、少年の表情はよくわからない。
ただ、赤い瞳だけが印象的に輝いている。
― 目覚めるって誰
アリスの問いには答えず、少年は黙っていた。
まるで何かを思い出すかのように目を伏せて。
アリスが少年の方へ近寄ろうと一歩足を踏み出したとき、少年は再び目を開いた。
そして、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
― 消えてしまう前に。僕はその夢を食べないといけない
アリスは少年に近よろうとしたが、慣れない空間で中々前に進めない。
少年がアリスに手を差し出した。
その手を握って、アリスは少年の隣に並ぶ。
― 食べる
アリスは少年の言葉を繰り返した。
― そう・・・楽しい夢、穏やかな夢が僕に力をくれる
自分の手を優しく包むのは少年の手。
それは、確かに温かい。
― 夢を食べられたらどうなるの
アリスは、少年の顔を見上げた。
― ・・・・・・忘れるんだ
声が少しだけ掠れて聞こえた。
月の光に照らされた少年の横顔は少しだけ青白い。
― 夢見たことも
― 僕と、出会ったことも・・・
少年とアリスの視線が交錯した。
― 私は覚えてたわ
アリスは不意に離れそうになった少年の手をしっかりと握り締めて強く言った。
その澄んだ空色の瞳は少年をしっかりと映している。
少年は少しだけ戸惑った素振りを見せた。
― ・・・初めてだったから
― また会えるかと訊いてくれたのは 君が初めてだったから
― だから、まだ・・・
少年の視線が彷徨って、そっとアリスの瞳に視線を合わせた。
― ありがとう
そう言って ふわり、と微笑む。
アリスは何故か思わず顔を逸らしてしまった。
心なしか、少しだけ頬が熱い気がする。
― と、時計を持っているときから 毎日考えていたの
― あなたのこと
息苦しさを感じながら、なんとか伝える。
少しだけ間があって、囁くような声が聞こえた。
― 僕はずっと・・・寂しかった
― でも、君が僕を忘れなかったから。もう大丈夫
しゃら、と軽く金属の触れ合う音を立てて、少年が懐中時計を取り出した。
― 感謝しないといけないな
― これが僕と君の夢を繋いだんだ
そのとき、2人の目の前の満月が震えた。
アリスは目を見開く。
いつの間にか、笑った口のような三日月が浮かんでいる。
― 前にも満月に月が笑ったのをみたわ
アリスが少年の手を引っ張るようにして身を乗り出すと、少年が僅かに眉を顰めた。
― 笑う・・・
アリスは少年を見上げた。
― 違うの
少年は、困ったように首を傾げて微笑んだ。
― 時間が、ないんだ
少年が一歩後ろへ下がった。
― 僕はまた別の夢へ渡らないと
繋いだ手が、名残惜しそうに解ける。
― また、会えるんでしょう
解けた手を降ろせないまま、希望を込めてアリスが尋ねた。
だけど少年はゆっくり首を振って背を向けた。
二人の距離が少し離れる。
― 今度こそ 僕は・・・この夢も食べないといけない
そんな、と呟いたアリスの声は少年の背で反射した。
― 私、あなたのことを忘れてしまうの
少年が懐中時計の蓋を開いて前に掲げた。
時計の針は満月を指している。
アリスは必死に考えて、そして咄嗟に叫んだ。
― ねぇ、私もあなたと一緒に行くことができる
少年が驚いた顔で振り返った。
― アリス・・・
アリスはもう一度、少年に触れようと手を差し出した。
― お願い、連れて行って
アリスの夢の中に浮かぶ月は、今なお、笑うような形をしている。