その日、空は始終どんよりとした灰色の雲に覆われていて、一向に日の光の射す気配はなかった。
今なお夕刻前というだけではない薄暗さが漂っている。
街灯の灯り始めた道を歩きながら、アリスは不安に駆られて空を仰ぎ見た。
案の定、空からパラパラと水滴が落ちてきてアリスの顔を叩く。
アリスは慌てて持っていた傘を開いた。
灰色の雲から落ちてくる水滴は、次第に勢いを増してくる。
アリスは、街灯の明かりを頼りに、足早に歩いた。
街はどこもかしこも灰色に沈んでいる。
突然前方に浮かび上がった人影に気づいて、アリスはびくりと足を止めた。
その人影は、雨の中傘もささずに路地に佇んで遠い空を見つめていた。
灰色の街のなかで、その金色の髪が鈍く輝いた。
― あ
アリスは思わず声を上げた。
その声に気づいて、人影が振り向いた。
それは、あの少年だった。
夜空のように黒い燕尾服が雨を吸い込んで、じっとりと重そうに、その色をさらに濃く深く見せている。
頭上のシルクハットも雨よけという点では全く意味をなさず、彼の額に張り付いた髪からは、間断なく水滴がこぼれ落ちていた。
少年は目を逸らさずにこちらを見つめている。
すると、彼はにこりとアリスに笑いかけ、右手を大きく回して慇懃に礼をした。
そして顔を上げると、口の端を持ち上げて無邪気に、にっと笑った。
アリスは早まる鼓動を抑えて、傘を持っていないほうの手でスカートをつまむと、片足を少しだけ後ろに下げて礼を返した。
少年が、少し目を細めて微笑んだ。
アリスは少年の隣に並んだ。
少しだけ傘をずらして、少年を見上げる。
― そんなに濡れたら、風邪をひくわ
それを聞くと、少年は軽く笑った。
― 大丈夫、風邪はひかない性質なんだ
アリスは傘を差し出したが、彼は首を振って断った。
― 何を、しているの
アリスが問うと、少年はちらりと目線を空に投げた。
― 友達を・・・待っているんだ
呟くように言ったときの、その表情は酷く真摯で。
先ほどまでは無邪気な少年といった感じだったのに、今は随分と大人びて見える。
アリスは どきりとして口を閉じた。
何を、と聞きたかったが、訪れた沈黙を破るのは憚られた。
少年はそのまま何も言わない。
アリスは立ち去るべきかどうか悩んだが、立ち去りたくないという気持ちが大きかったので、そのまま一緒に灰色の空を見つめた。
すると少年がアリスのほうに顔を向けた。
― 君、猫は好き
唐突に聞かれて、アリスは戸惑いながら答えた。
― え、ええ、好きよ
すると少年は意味ありげに笑って、白い手袋を嵌めた両手をアリスの前に掲げた。
そしてその両手を後ろに回した。
左手から右手に、まるで襷を渡すかのようにしてから再び両手を前に差し出すと、その手のひらの上には黒くてふわふわした毛玉がのっていた。
なんだろうと覗き込んだときに、それが突然もぞもぞと動いたので、アリスは思わずびくりと慄いた。
少年は声をたてて笑った。
― さっき、そこで迷子になっていたのを見つけたんだ
そう言って、家の裏の路地をあごで指す。
― 本当は一緒に連れて行きたいところだけど、僕の友達は嫌がるに決まっているから
毛玉は、手足の先だけが少し白いだけで、あとは全て真っ黒の子猫だった。
この雨の中、フサフサとしたその毛並みは少しも濡れていない。
― 君の家で飼えないかな
子猫は あどけない表情でアリスを見つめている。
アリスが手を差し出すと、身を乗り出してアリスの指先に鼻を近づけた。
そのとき、アリスの傘の先から落ちた大きな雫が子猫の頭に落ちた。
黒猫は すぐさまびくりと身を引いて、きょとんとした顔をする。
その表情があまりにも可愛くて、アリスと少年は顔を見合わせて笑った。
アリスは一目でその子猫が気に入ったので、家に連れて帰ることに依存はなかった。
― うん、可愛がってあげてよ
微笑む少年に アリスは思い切って尋ねた。
― あなたは、魔法使いなの
アリスの問いに、少年は苦笑しながら答えた。
― 今のは、簡単な手品さ
アリスは一度首を振ってから、少年を見上げた。
― 私の夢に入ってきたのも
その言葉を聞いて、少年が硬直する。
― え
瞳が、驚きで見開かれていた。
少年はしばらく黙ったままだった。
アリスは次第に不安になる。
あれは本当に只の夢だったのだろうか。
― アリス・・・、君は・・・
教えていない名前を呼ばれたことよりも、アリスはその少年の表情に目を奪われた。
― ・・・君は覚えているんだね?
それは先ほどまでの笑顔からは想像もつかないような真摯な瞳で、口元は確かに笑っているのに酷く泣きそうな表情だった。
アリスが口を開いたそのとき、ものすごい羽音とともに白い鳩の群れが舞い降りてきた。
アリスは悲鳴をあげて、両手で子猫を抱きしめた。
腕の中で子猫がもがく。
硬く瞑っていた目を薄く開いても、見える世界はただただ白く、少年がどこにいるのかは分からなかった。
子猫の小さな爪がアリスの腕にくいこむ。
頭が痛くなるような大きな音の渦の中で、少年の声だけが澄んで聞こえた。
― アリス、今夜、夢の中で
羽音が小さくなってからアリスが目を開けると、そこにはもう少年の姿も鳩の姿もなく、
たくさんの白い羽に埋もれるようにアリスの傘が落ちているだけだった。
腕の中の子猫は暖かい。
いつの間にか雨はやんでいる。
雲間から、満月が静かに覗いているのが見えた。