TheGrinningMoon 〜笑う月(1)〜

アリスは年の離れた姉に手を引かれて街路を歩いていた。
いや、歩いていたというよりは帰り道を急ぐ姉になかば引き摺られるような格好で走っていた。

太陽は既に半ば地平線に隠れている。
今日は満月だから、姉は早く家に着きたいのだろう。
行きかう人々はまばらで、みんな早足になっている。

街灯がぼんやりと灯り、路を照らし始めた。
立ち並ぶ家々の窓辺からは暖かな明かりがもれ、煙突は盛んに白い煙を吐いている。

頭上から羽音が聞こえてきたので、アリスは上を見上げた。

白い鳩の群れが飛んでいく。
日が暮れる前に公園にある巣に帰るのだろう。

アリスが視線を戻すと、鳩がとんできた方角、そして人々が向かう方角から 少年が歩いてくる。
人々の流れと反対方向に歩いているので目に付いた。

少年は夜空のように深い色の燕尾服に揃いのシルクハットをかぶっている。
胸ポケットからは、ちらりと金色の鎖が覗いていた。

燕尾服を着ている大人は多いけれど。
少年が燕尾服を着て、ましてや、シルクハットまでかぶっていることは珍しい気がした。

少年がこちらを見た。

そちらに気をとられていたので、手を引く姉の歩調とずれてしまった。
姉にぐいと手をひっぱられて、アリスはバランスを崩した。
繋いでいた手が解けて、転ぶ、と思った瞬間、
体の周りを風がふわりと とりまいたような、不思議な感じがした。

夢の中にいるみたいに、とても体が軽い。

姉に名前を呼ばれて気がつけば、いつの間に駆け寄ってきたのか 少年がアリスを抱きとめている。
温かい、とアリスは感じた。
少年の体温だ。

― 大丈夫

少年がアリスの顔を覗き込んだ。
癖のある黄金色の髪の隙間から、大きくて赤い瞳が見つめている。
アリスはぼんやりと頷いた。

― 良かった

少年が微笑んだ。
落ち着いたトーンの声は、夢と現実の境を曖昧にする。
アリスはまだ、ぼうっとしていた。
姉がそんなアリスの手を引いて立たせる。

― あなた、有難う

年は姉より下だろうが背は少し高い。
彼は首を傾げて微笑んだ。

― いいえ、気をつけて

姉は頷いた。
そして空を見上げる。
太陽は隠れ、空には星が瞬き始めている。

― あぁ、もう月がでてきてしまったわね
― 急いで帰らないと行けないわ

姉は再びアリスの手を握った。

アリスを抱きとめたときに放り投げたのだろう。
少年は、傍らに転がっていたステッキを拾い上げてから、空を仰いで言った。

― 大丈夫

― 月の光は、皆を守ってくれるから

そして再び、気をつけて、と言うと頭を軽く下げてから身を翻した。
燕尾服の裾がふわりとなびく。

そのまま、振り返ることなく軽やかにかけ去っていってしまった。
アリスは、何も言えずにその後姿を見送っていた。

― さぁ、私達も帰りましょう

姉が 今度はゆっくりとアリスの手を引いて歩き出した。
ふと重みを感じてアリスが下を見ると、エプロンの大きなポケットの中に何かが入っている。

金色に鈍く輝く鎖。

すぐに振り返ったけれど、少年の姿はもう ちらりとも見えなかった。

ただ君と一緒にいたかった