TheGrinningMoon 〜Prologue〜

街は ひっそりと静まり返っている。
夜空には星が瞬き 満月がやさしく輝いている。
家々の屋根上の煙突は昼間の忙しさもどこへやら。
まるで深海の生き物のようにそっと聳えて、濃い影を落としている。

ふと、とある煙突の影の中から ひときわひょろ長い影がふわりと抜け出した。
その影は人のカタチをしている。

肩幅が広いので男だろうか。
背が高くほっそりとした体に夜空と同じぐらい深い黒の燕尾服を身に着けていて、動き出す前までは煙突の作る闇に溶け込んでしまって気がつかなかった。
影から抜け出した今でさえ、揃いのシルクハットの下から覗く顔は月明かりの作る濃い闇に隠されてよく見えない。

彼は、懐から懐中時計を取り出した。
金色の鎖も古びてくすんだ色合いの懐中時計の蓋が開くと、文字盤には数字ではなく月の満ち欠けが描かれている。
針が指しているのは時計であれば12時の位置。
そこに描かれた月は満月。

彼が夜空を仰いだため顔が月の光に照らしだされた。

黄金色の髪が、光をとりこんで ちらちらとさんざめく。
やや大きめの瞳は紅玉のように赤く、無邪気な光を宿して満月を見つめている。
白く晒された頬は ふっくらと柔らかな稜線を描いていて、つんと尖った顎に続いている。

閉じているだけで うっすらと微笑みの形をつくる唇をさらに微笑ませて 少年は、

そう、少年は笑った。

彼は取り出した懐中時計を懐に戻すと、そこが傾斜した屋根だと感じさせない足取りですたすたと縁まで歩いた。
突き出した煙突を片手でつかむと、それを軸にしてくるりと身を乗り出す。
下を覗き込んで誰もいないことを確認すると そのまま手を離した。

地上3階はあるような家の屋根から飛び降りたのに、少年は叩きつけられることなく まるで重力を感じていないかのような足取りで地面に降り立った。

そのまま片手を挙げかけて ふと手のひらに目を遣る。

手には白い手袋が嵌められていたが 煙突をつかんだ側の手袋が煤で黒く汚れていた。
少年は僅かばかり顔をしかめて手を軽くはたいた。
すると、一瞬で新品同様の白さになる。

それを見て満足そうに微笑むと、再び片手を挙げる。
一体どこに隠し持っていたのか、挙げた手にはステッキが握られている。

そのステッキをくるりと回転させると、彼は改めて周囲を見回した。

深夜のため街灯は2つ置きにしか灯されていない。
けれど月明かりに街は柔らかに浮かび上がっている。

丁寧にタイルを敷き詰められた街路。
両脇に立ち並ぶレンガ造りの家々。
玄関へと続く石段。
窓辺に植えられた鉢植えの花。

明かりの漏れている窓は一つもない。

順々に滑らせていた視線が、とある2階の窓の一つで止まった。

他の家の窓と比べても何の変哲もない窓である。
この街では珍しくない 窓の上部に嵌められたステンドグラスは、これまた珍しくない百合の花模様。

その部屋は子供部屋だろうか。
窓辺には大きさも個性も様々な人形がぎっしりと並んでいる。

ちょこんと首を傾げたテディベアに、なんとも愛嬌のある顔立ちをしたピエロ。
目を光らせる黒い猫の人形もあれば、目を瞑った赤ん坊の人形もある。
黄色の毛糸で作られた巻き毛が可愛らしい少女の人形には、ウサギのような耳がついている。
その隣には、揃いで作ったのだろう少年の人形があって、やはり黄色の髪の間からウサギの耳が覗いている。

少年は真剣な眼差しでその窓を見つめていた。
無意識のまま、片手が挙がってシルクハットの庇が握られる。

視線が逸らされて足元に移ったとき、少年の顔には嬉しいような悲しいような複雑な表情が浮かんでいた。

彼はそのまま長いこと、身じろぎもしなかった。

やがて思い出したように、静かに首を振ったそのとき。
街路に羽音が反響した。

少年が、シルクハットにかけた手をおろして顔を上げると、夜空を何羽もの白い鳩の群れが飛んでいくのが見えた。

夜に、空を飛ぶ鳩の群れ。
それは異様な光景ではあったのだが、彼は別段驚きもしなかった。

ゆるゆると彼の顔に笑みが広がっていく。

少年は片手に握っていたステッキを反対の手に持ち直すと、そのまま白い鳩の飛んでいく方向に向かって軽やかに歩き出した。

鳩の群れはときおり旋回しながら、
夜空に輝く大きな満月に向かって飛んでいく。

ただ君と一緒にいたかった