贈り物の日:04 『アドニアの雪』

 とんと、小さな硝子のランプを叩くと、魔力に呼応して光がゆらりと揺れた。
 シーリィンは濃い緑の布を広げて見る。一色の布に見えるが、近くで触って見ればそこに細かな刺繍が施されていることが分かるだろう。
 少し早めから取りかかったのにもかかわらず、公務に忙しかったために随分と時間が掛かってしまった。なにより自分が張り切りすぎたせいもあるのだろう。今年の末に贈るそれは、今までのものとは意味が違うのだ。
 シーリィンは脇にある小箱の中から金の糸を取り出すと最後の仕上げにかかる。
 あとは縁取りをし、印を入れるだけだ。
 一針を丁寧に入れ、裏側も同じ形になるように確認しながら手を進める。
 不意に光が揺らめいたのを見て、シーリィンは窓を見上げる。
 暗がりの向こうに人影が見える。人影はシーリィンがそこにいることに一瞬驚いたような顔をしたが、ややあって静かに頭を下げた。
「……アリオトさま」
 夜の時間になったばかりであるとはいえ大声を出す訳にもいかず、シーリィンは小声で彼を呼び止める。立ち去ろうとしていた彼は足を止めた。
「お急ぎでなければ、少しそこで待っていて頂けませんか?」
 言うとややあって了承を示す言葉が戻ってくる。シーリィンは糸を切り、布とランプを抱えてアリオトのいる所へと急ぐ。
 部屋から出て廊下を渡り、階段を上がった小さな塔の上に彼の姿はある。
 急いで上がるとアリオトが少し心配した顔になった。
「何か……ありましたか?」
「いいえ。すみません、お仕事中にお呼び止めして」
「いえ。その、あの場所で何を?」
「贈り物の支度を」
 ああ、と彼は笑う。
 ウィンクルムには年の末、世話になった人や大切な人へ贈り物をする風習がある。アドニアにもそう言った風習はあり、多くの人がその準備をしている。高価なものでなくても‘物’で無くても人は物を贈り、絆を深めていく。
 シーリィンが贈ると決めている人間は幸いにも多い。さすがに全てを手で作ることは出来なかったが、その人の為に選んだものばかりだ。気持ちの軽いものはひとつもない。
「それは……陛下への贈り物ですか?」
「いいえ、これは……」
 言いかけて、不意に空から何かが降り注いでいる事に気付く。初めは雨粒に見えた。だが、それは白い何かの塊。
「……これは」
「雪?」
 アリオトが手を伸ばす。
 倣うようにシーリィンも手を伸ばした。
 アドニアに雪が降ることはない。冷えることはあっても、太陽の庇護を受ける代わりに雪の女神に嫌われたこの土地に雪というものが降り注ぐことはなかった。
 アリオトが雪と呼んだ白い綿毛のようなものはシーリィンの指先に止まる。ひやりと冷たい感覚があったがそれはすぐに形を失う。
「自分の知る雪とは……違いますね」
「違いますか?」
「はい。……その、雪は解けると水に変わるものですが、これは」
 シーリィンは手のひらを見る。
 手のひらに水滴は付いていない。ただ少しキラキラと輝く何かが残っているだけだった。
「これは……魔法、ですわね」
「やはりそうですか。……害のあるものでしょうか」
「いいえ。精霊のもたらす恵みの少ないアドニアにとって恵みとなるでしょうね。……民は少し驚くかもしれませんが」
 言ってから少し笑う。
「明日、少し大変ですわね」
 雪を知らないアドニアの民は何が起こったのかと騒ぎ出すだろう。この世界には魔法が満ちあふれている。故に、凶兆と騒ぎ立てるものはそうないだろうが、暫くの間この噂で持ちきりになるだろう。
「もしかしたら……」
 アリオトの呟きにシーリィンは顔を上げる。
「誰かの‘贈り物’かもしれませんね」
「素敵ですわね」
 言うとアリオトは少し顔を赤くした。
 困ったように目を逸らし、そしてまた困ったようにシーリィンを見た。
「あの……その、少し、冷えますね。寒くはありませんか」
「私は大丈夫です。ここは時折酷く冷えますからね。……あの、アリオトさま」
「はい」
「少しかがんで頂けませんか?」
「はぁ」
 言ってアリオトが少しだけ身をかがめる。
 その肩にシーリィンは出来たばかりのそれを掛ける。
 濃い緑の特別な刺繍を入れた肩布だった。
「……差し上げます」
「自分に……ですか?」
「はい。私から貴方へ。その……日頃お父様も私も、貴方に頼りきりですから、どうか貰って下さい」
 アリオトは少し戸惑った様子で布を見る。それをシーリィンは止める。心臓の音が早い。顔だけが妙に熱くなった。
「すみません、アリオトさま。どうか……刺繍の意匠は、後でご覧になって下さい」
「え……あっ」
 止めるのが遅かった。
 アリオトの視線が最後に入れた金の印を見る。
 意味を悟ってアリオトの顔が赤くなるのが分かった。
 シーリィンはうつむいた。まともに彼の顔が見れない。どんな顔をしているのか、怖くて見つめられなかった。
「……ごめんなさい。その、どうしても、貴方に贈りたかったのです。迷惑でした……か?」
「そんなことはありません!」
 強く言われ、シーリィンは顔を上げる。
 アリオトの強い視線がシーリィンを見つめる。
 真っ直ぐで真摯な眼差しだった。
「自分はシーリィン様のことで迷惑と思ったことは一度もありません。自分は、その……っ!」
 言っている途中でアリオトの顔が真っ赤に染まる。
 それにつられるようにシーリィンの顔も熱くなった。
「……、す、すみません」
「……え……その、私の方こそ……」
 アリオトに贈った肩布にはその端の方に小さく王家の紋が入っている。有事を除いて本来は王族のみしか身につけないものだが、王族が特別な信頼の証として贈ることがある。王女であるシーリィンが自ら刺繍し、贈るという行為は特別な意味を孕んでくる。
 この人が好きだと思う。
 強く真っ直ぐで優しく、いつも国のため王の為と尽力してくれる人。男である彼に嫉妬する気持ちはある。けれどそんな感情など些末と思えるほどに惹かれている。嫉妬も羨望も全てを含めて彼への想い。
 今までは見えない振りをしていた。けれど、お見合いの席に乗り込んでまで彼が自分に想いを打ち明けてくれたあの日から見ない振りなど出来なくなった。あふれ出す気持ちでどうにかなってしまいそうだった。
「……その、もう少し」
「え?」
 声を掛けられシーリィンは彼を見上げる。
 少し赤い横顔。
 真っ直ぐ空を見上げ、降り注ぐ白を見ている。
「もう少し、雪を見ていきませんか? その、とても、綺麗……ですから」
 シーリィンは微笑む。
「はい。私もそうお願いしようと思っていました」
 もう少し、一緒に居て下さいと。
 シーリィンは空を見上げる。
 どこかの誰かの‘贈り物’の白い雪が空から降り注いでいる。
 見慣れない白の美しさを眺めながら、シーリィンは一歩だけアリオトの方へと寄った。


 見慣れたアリオトの顔が少し近くにあった。


 とんと、小さな硝子のランプを叩くと、魔力に呼応して光がゆらりと揺れた。
 シーリィンは濃い緑の布を広げて見る。一色の布に見えるが、近くで触って見ればそこに細かな刺繍が施されていることが分かるだろう。
 少し早めから取りかかったのにもかかわらず、公務に忙しかったために随分と時間が掛かってしまった。なにより自分が張り切りすぎたせいもあるのだろう。今年の末に贈るそれは、今までのものとは意味が違うのだ。
 シーリィンは脇にある小箱の中から金の糸を取り出すと最後の仕上げにかかる。
 あとは縁取りをし、印を入れるだけだ。
 一針を丁寧に入れ、裏側も同じ形になるように確認しながら手を進める。
 不意に光が揺らめいたのを見て、シーリィンは窓を見上げる。
 暗がりの向こうに人影が見える。人影はシーリィンがそこにいることに一瞬驚いたような顔をしたが、ややあって静かに頭を下げた。
「……アリオトさま」
 夜の時間になったばかりであるとはいえ大声を出す訳にもいかず、シーリィンは小声で彼を呼び止める。立ち去ろうとしていた彼は足を止めた。
「お急ぎでなければ、少しそこで待っていて頂けませんか?」
 言うとややあって了承を示す言葉が戻ってくる。シーリィンは糸を切り、布とランプを抱えてアリオトのいる所へと急ぐ。
 部屋から出て廊下を渡り、階段を上がった小さな塔の上に彼の姿はある。
 急いで上がるとアリオトが少し心配した顔になった。
「何か……ありましたか?」
「いいえ。すみません、お仕事中にお呼び止めして」
「いえ。その、あの場所で何を?」
「贈り物の支度を」
 ああ、と彼は笑う。
 ウィンクルムには年の末、世話になった人や大切な人へ贈り物をする風習がある。アドニアにもそう言った風習はあり、多くの人がその準備をしている。高価なものでなくても‘物’で無くても人は物を贈り、絆を深めていく。
 シーリィンが贈ると決めている人間は幸いにも多い。さすがに全てを手で作ることは出来なかったが、その人の為に選んだものばかりだ。気持ちの軽いものはひとつもない。
「それは……陛下への贈り物ですか?」
「いいえ、これは……」
 言いかけて、不意に空から何かが降り注いでいる事に気付く。初めは雨粒に見えた。だが、それは白い何かの塊。
「……これは」
「雪?」
 アリオトが手を伸ばす。
 倣うようにシーリィンも手を伸ばした。
 アドニアに雪が降ることはない。冷えることはあっても、太陽の庇護を受ける代わりに雪の女神に嫌われたこの土地に雪というものが降り注ぐことはなかった。
 アリオトが雪と呼んだ白い綿毛のようなものはシーリィンの指先に止まる。ひやりと冷たい感覚があったがそれはすぐに形を失う。
「自分の知る雪とは……違いますね」
「違いますか?」
「はい。……その、雪は解けると水に変わるものですが、これは」
 シーリィンは手のひらを見る。
 手のひらに水滴は付いていない。ただ少しキラキラと輝く何かが残っているだけだった。
「これは……魔法、ですわね」
「やはりそうですか。……害のあるものでしょうか」
「いいえ。精霊のもたらす恵みの少ないアドニアにとって恵みとなるでしょうね。……民は少し驚くかもしれませんが」
 言ってから少し笑う。
「明日、少し大変ですわね」
 雪を知らないアドニアの民は何が起こったのかと騒ぎ出すだろう。この世界には魔法が満ちあふれている。故に、凶兆と騒ぎ立てるものはそうないだろうが、暫くの間この噂で持ちきりになるだろう。
「もしかしたら……」
 アリオトの呟きにシーリィンは顔を上げる。
「誰かの‘贈り物’かもしれませんね」
「素敵ですわね」
 言うとアリオトは少し顔を赤くした。
 困ったように目を逸らし、そしてまた困ったようにシーリィンを見た。
「あの……その、少し、冷えますね。寒くはありませんか」
「私は大丈夫です。ここは時折酷く冷えますからね。……あの、アリオトさま」
「はい」
「少しかがんで頂けませんか?」
「はぁ」
 言ってアリオトが少しだけ身をかがめる。
 その肩にシーリィンは出来たばかりのそれを掛ける。
 濃い緑の特別な刺繍を入れた肩布だった。
「……差し上げます」
「自分に……ですか?」
「はい。私から貴方へ。その……日頃お父様も私も、貴方に頼りきりですから、どうか貰って下さい」
 アリオトは少し戸惑った様子で布を見る。それをシーリィンは止める。心臓の音が早い。顔だけが妙に熱くなった。
「すみません、アリオトさま。どうか……刺繍の意匠は、後でご覧になって下さい」
「え……あっ」
 止めるのが遅かった。
 アリオトの視線が最後に入れた金の印を見る。
 意味を悟ってアリオトの顔が赤くなるのが分かった。
 シーリィンはうつむいた。まともに彼の顔が見れない。どんな顔をしているのか、怖くて見つめられなかった。
「……ごめんなさい。その、どうしても、貴方に贈りたかったのです。迷惑でした……か?」
「そんなことはありません!」
 強く言われ、シーリィンは顔を上げる。
 アリオトの強い視線がシーリィンを見つめる。
 真っ直ぐで真摯な眼差しだった。
「自分はシーリィン様のことで迷惑と思ったことは一度もありません。自分は、その……っ!」
 言っている途中でアリオトの顔が真っ赤に染まる。
 それにつられるようにシーリィンの顔も熱くなった。
「……、す、すみません」
「……え……その、私の方こそ……」
 アリオトに贈った肩布にはその端の方に小さく王家の紋が入っている。有事を除いて本来は王族のみしか身につけないものだが、王族が特別な信頼の証として贈ることがある。王女であるシーリィンが自ら刺繍し、贈るという行為は特別な意味を孕んでくる。
 この人が好きだと思う。
 強く真っ直ぐで優しく、いつも国のため王の為と尽力してくれる人。男である彼に嫉妬する気持ちはある。けれどそんな感情など些末と思えるほどに惹かれている。嫉妬も羨望も全てを含めて彼への想い。
 今までは見えない振りをしていた。けれど、お見合いの席に乗り込んでまで彼が自分に想いを打ち明けてくれたあの日から見ない振りなど出来なくなった。あふれ出す気持ちでどうにかなってしまいそうだった。
「……その、もう少し」
「え?」
 声を掛けられシーリィンは彼を見上げる。
 少し赤い横顔。
 真っ直ぐ空を見上げ、降り注ぐ白を見ている。
「もう少し、雪を見ていきませんか? その、とても、綺麗……ですから」
 シーリィンは微笑む。
「はい。私もそうお願いしようと思っていました」
 もう少し、一緒に居て下さいと。
 シーリィンは空を見上げる。
 どこかの誰かの‘贈り物’の白い雪が空から降り注いでいる。
 見慣れない白の美しさを眺めながら、シーリィンは一歩だけアリオトの方へと寄った。


 見慣れたアリオトの顔が少し近くにあった。




01




シーリィン・アリオト
文:みえさん。 絵:天方生束

終わり無き冒険へ!