Novel:14 『闇を焦がしてなお蒼く』3/9
海はどこまでも蒼く澄み渡っている。
天の青を写して蒼く見えるのか、それとも空が海の青に魅せられてしまったのか。
時に金色に、時に赤く染まる水面を見つめながら彼女は海の中を彷徨っていた。
彼が、人間界にいると知った時、彼女はすぐに人間界に戻った。
元々人間の住むウィンクルムには彼とは関係なく幾度と無く訪れている。この海が嫌いではなかったし、時折想像も付かない‘強さ’を見せる人間達にも興味があった。
けれどそれが彼女の渇きを潤すわけではない。
彼がいるのだ。
それだけで彼女にとってのこの世界の価値が変わる。
この世界は彼という神を受け入れて、素晴らしい色を帯びたのだ。
それなのに何故彼に巡り会えないのだろうか。
メレディスは目立つように動いている。噂でも彼女の存在を聞けばあの男の事だ、駆けつけてくると信じていた。
けれど男は現れない。
彼女が探しても巡り会うことがない。
あの男が死んだ訳がない。誰かに殺されるような男ではないし、第一、あの男を殺すとしたら自分しかないはずなのだ。
そうとなれば決戦を先延ばしするために彼が故意に避けているように思えた。
決着を付けて仕舞わない為に。
もどかしいほど恋い焦がれるこの感情を消さない為に。
そう、惜しむ気持ちは彼女の中にもある。
決着を付けるのが惜しい。
折角得た激情をそこで終わらせてしまうのが惜しい。
そんな感情は彼女の中にもあった。
「……あら」
海岸に流れ着いて彼女は少し瞬いた。
南に向かうつもりだった。
だが、ぼんやりと潮に流されて思いの外西へ来てしまったようだ。
この場所は覚えている。
アスコリ島、トルナーレ。
以前ツィーダルらしき人影をつかみかけながらも結局会えなかったあの場所だ。
何故こんなところまで来てしまったのだろうと彼女はぼんやりしながら岩場に腰を下ろした。
朝日だろうか、夕陽だろうか。
次第に東雲の色から白く変わっていくところを見れば朝日なのだろう。
彼女は息を吐きながら少し目を閉じる。
潮風がどこからか人の気配を運んでくるようだった。
風になびいた髪の先についた鈴がちりんと鳴った。
その音色がいつもと違うのを感じて彼女は髪を一房掴む。
「……どこかで落としてしまったのね」
鈴の数が足りない。
人にあげた記憶も無ければわざと落としてきた記憶もない。
少し勿体ない気もしたが、自分の魔力を込めた鈴だから壊れてしまうことはない。世界を巡っていればいつか再び出会うだろうと思った。
お姉さん、と遠くから声が聞こえたのはそれから暫くしてからだった。
自分のことを呼んだのだろうかと彼女は振り返る。ばしゃばしゃと小さな波を立てて海の中に入ってくるのはサンダルを両手に持った少女だった。
何故か少年のような服装をしているが、彼女の目には少女に映る。
「そんなところで、何やってるんだ? 潮が満ちたらあぶねぇぞ?」
少し緊張したような声音で彼女が言う。
声は子供らしく高く男女の判別が付かないが、口調は少女のようではなかった。
まるで男の子になろうとしているかのようだった。
どこか幻影でも見ているかのような目で彼女が見つめてくる。メレディスはにこりと微笑んだ。
「ありがとう」
少し間があった。
微かに顔が紅潮して見えるのは朝日のせいだろうか。
「貴方、この街の子じゃ、ないわね?」
確かめるように問いかけると彼女は頷き、船に乗って来たのだと一隻の船を指差す。
綺麗な船だ。
以前同じ型の船に遭遇したことがある。あの時は騒がしいだけで美しいと思わなかった。あのまま騒ぎ続けるようならば沈めてしまおうかとも思った。
この船はそれと同じ形をしているのに美しい。
水の上にあるからこそ美しい船体。
操る者の、そして船を愛する者の心が映っている。
少女は自慢げに乗組員なのだと言った。
「そう……良い船ね。大切にされているのが、ここから見ていても分かるわ」
「あ……あぁ! そうなんだ!」
少女は興奮した様子で声を上げた。
船のこと、船に乗る人のこと、彼女はそれを楽しげに語る。
彼女自身その船と乗船する仲間達のことをどれだけ大切に思っているのか、そして彼女も大切にされていることが良く分かった。海が好きなのかと問えば彼女は照れたように笑ってそうだと応える。
そしてやはりそうだと思う。
この少女のことをメレディスは知っている。
小さな港町の海岸で海と船をいつも見つめていた少女だ。確か人魚姫の名前で呼ばれていた。泳げないのに人魚姫と呼ばれているのがおかしくて、つい見つめてしまった。彼女はとても、海を想っていた。
あの心が、可愛らしいと思っていた。
いつの間にか彼女の姿を見ることがなくなった。人は儚い生き物だ。死んでしまったのかと思っていたが、生きていたことを少し嬉しく思い、微笑んだ。
とたん彼女の顔が赤くなるのが見て取れた。
彼女は慌てたように話題を変える。
「おねぇさんも、ここの街のひとじゃぁ……ない、よな?」
言われてメレディスは頷く。
「えぇ、私は、人を捜しているの」
そう、人を捜していつの間にかここまで来てしまったのだ。
不意に、彼女が海を行く船の乗組員だという話を思い出してメレディスは少し笑いを浮かべた。
「貴方、あちこち行っているなら知らないかしら? ……燃えるような赤い髪と、朽ちることのない木の葉と同じ緑色をしている、強い男を」
メレディスは海の深くに潜り目を閉じた。
あの少女は一瞬赤髪で緑の目をした男に心当たりがあるような事を言ったが、それはヴァーダという名前の男らしかった。
その名前には覚えが無く、先だって男から聞いたゴンベという男のことでもなさそうだった。
その証拠に、少女にも何か違和感があったらしく複雑そうな顔をしていた。目が、明らかに自分は見当違いな事を言っていると言いたげだったのだ。
恐らく違うのだろうと思う。
たとえ偽名を名乗っていたとしても、ツィーダルであるのなら誰が見ても分かるだろう。或いは少女が戦いを知らない風であったために気付かなかったのかもしれないが、明らかに気配の違う男だ。違和感を覚えないはずがない。
だが少女の認識は「船長と仲のいい人」だった。
その程度にしか認識されないのであれば違う。
そう言えば、以前もどこかの島で赤毛で緑の男と言って息を詰まらせた女がいた。
青の色を持ち独特な雰囲気をもった女だった。
名前を言ったとたん、彼女はあからさまにホッとしたような表情を浮かべ、それだけでツィーダルではないことがわかった。
当然の事のようにこの世界には赤い髪の存在は珍しくなく、緑の瞳との組み合わせもそんなに稀でもない。
だから赤髪の強い男を聞いて彼にすぐに辿り着けるとは思っていない。
しかし少し苛立ちを覚える。
(間違われる人間は少ない方がいいわ。……そのヴァーダという男、ろくでもない男だったら、沈めてあげようかしら)
そう思ったがすぐにその案を頭の中で廃棄した。
少女の口ぶりから強そうには思えなかった。
ならつまらないだけだ。
メレディスは殺戮や人を殺すことが好きな訳ではない。戦うことが好きなのだ。
ならばあの自分の力は守る為だけにあると言った女の‘心当たりの男’を捕まえて、女と戦う方がよほど有意義だ。その男を害するかもしれないと言えば女は本気になるだろうか。
だがそれも余り面白くなさそうだ。
結局、彼に辿り着かなければ渇きは癒されないという事なのだろうか。