Novel:08 『小夜嵐』 2/4

「アドニアの王女が、このような場所で何をしているのじゃ?」
 相手は一国の王女、周囲の者の目もあるために直接話しかけるのは面倒だとでも思ったのだろう。エラムは用意された酒を飲みながら、やや不機嫌そうにジルに問いかけた。
 ここはアドニアから随分と離れている。護衛がいるとはいえ常識的に考えて一国の王女がフラフラと出歩けるような距離ではない。
「シリンは探しているのだよ」
「何をじゃ?」
「英雄と成り得る存在を」
 言うとシリンが笑う。
「そんな大層なものじゃありませんよ。ただ、父と共に戦ってくれる力のある方を探しているだけで」
 彼女は手ずからエラムのグラスにワインを注ぎ入れながら言う。
 一隊の中央に設けられた、たき火の光を反射して彼女の瞳が悪戯っぽく輝いた。髪の色こそ父親譲りだったが、この表情の作り方は恐らく母親譲りだろう。彼女の亡くなった母親に関しては本当に幼い頃しか知らないが、その面影を色濃く継いでいるように見えた。
「本当のことを言えば、英雄は先生の事だって思っているんです」
「随分と頼りのない英雄じゃのう」
 先刻のことをまだ根に持っているのだろうか。シリンが料理と酒を振る舞ってくれる以上、先刻の賭は反故になっているはずなのだが、からかわれたことが気に入らなかったのだろう。
 そう言う時この男は良くかわいげのない事を口にする。
 もっとも、齢四百を超える男にかわいげを求めても仕方のない話だ。
「先生は私の父を二度も助けているんですよ」
「おや、かの王がそれを喋ったのかね?」
「片方は母から。初めて先生とお会いしたときは、本当に頼りないように思えましたけど」
「手厳しい」
「言われておるのう」
 シリンのようなまだ若い女に言われているのがおかしかったのだろう。酒を煽りながらエラムは楽しそうに笑った。
「だって、先生ったら身体が父の半分くらいしかないんですよ。腕も私よりもずっと細くて大丈夫なのかしらと思ったものです。でも先生はとても、強い」
 ふむ、とエラムが頷く。
「これが負けを知らぬのは認めるがのう、主に強運がもたらしている勝利だと思うのじゃが」
 くすくすとジルは笑う。
「君は本当に可愛くないね」
「御主に可愛いと思われても薄気味が悪いだけじゃ」
 本当に仲がいい、とシリンは笑う。
「でも、エスメラルダ様、先生が強いのは本当なんですよ。師父が先生は星を……」
「シリン」
 それ以上言わないでいいと遮るかのようにジルは声を上げる。
 無論そうでないのだが、咎められたと思ったシリンはジルを見返す。
「……嵐が来るよ、シリン」
 声を潜めて言うと彼女はちらりと空を見上げた。上空の雲の流れが少しだけ速くなってきている。だが、嵐が来るというような天気ではなかった。
 だが、兆しが見える。
 魔物達がこちらを狙う兆しがある。
「いけませんね、気付きませんでした」
「手伝うかね?」
「いいえ、私はこれでもシウ一門の者ですから、この程度の陣くらいは守れます。先生はゆっくりとお休み下さい。エスメラルダ様もごゆっくりとお休み下さいませ」
 一礼をして彼女はくるりと踵を返した。
 その瞬間、彼女の表情の変化を見ていたらエラムも驚いただろう。今までは少々気の強い眼差しを持っていながらも王女然としていた女だ。その表情が今は一介の戦士の表情に変わっている。
 見なくても分かる。気配が変わっているし、彼女の変化は幾度と無く見ているから知っている。
 彼女は護衛の者達に命令を飛ばした。
「本陣手前に油を張っていつでも火の放てる準備を。魔法使い達は中央に集まり指示を待て。武器を持つ者は先陣に立て、怖じる者があれば邪魔をせぬよう隠れていろ」
 きびきびと指示を出す彼女の姿を見て、兵士達の表情も変わった。それぞれが慣れた様子で次々と持ち場へと着いていく。
 ジルとエラムだけがたき火の近くに残された。
「……裏表のある娘じゃ。我は好かぬ」
「彼女にとってはどちらも表だよ」
「あのような変化を見せる者は大概内に魔を飼い慣らしているものじゃ。いずれ御主にも牙を剥くかもしれぬぞ」
「それ起こり得ない事だよ」
「大した自信じゃのう」
「万一にもあの子が私に襲いかかったとしたら、その時は恐らく私が道を誤っている時なのだろうね。私があの子を信じている以上、裏切りはあり得ない」
 その言葉をどう受け止めたのかは分からないが、エラムは酷く怪訝そうな顔をした。
 暫く黙り込み、そして躊躇いがちに口にした。
「なら、我はどうじゃ。御主にとって我の裏切りは起こり得ないことか?」
「それは君が決める事ではないのかね」
「矛盾しておるぞ、ジル!」
 ジルは笑う。
 ごう、と強い風が巻き起こり、炎をかすめ取るように揺らして消えた。当然燻っていてもいいはずの薪までもが完全に火の気を失い辺りはとたん暗闇に飲まれた。
 薄く光る月と星の明かりだけが仄かに地上を照らしている。
 風か、或いは獣か。
 どこかで何かが唸るような音が聞こえた。
 ぱりん、とガラスが砕けるような音が聞こえてジルはぎくりとする。
 いつだったか砕かれた瓶を見ながら彼が言った。『幸せと思っていた世界もやがてはこの瓶のように砕けてしまうやもしれん』と。
 それは恐らく比喩だったのだろう。
 けれど彼の目には、砕けた瓶の破片がいつか見た世界の終末と重なって見えた。
 思い出して、かみしめるようにジルは言う。
「私の故郷はね、滅亡の危機に瀕している」
「何じゃ、突然」
「星が衝突をし、一瞬にして無に還る。それを回避する方法を私は長い間求め続け、世界のほんの僅かだけ救える方法を発見した」
「悲願が叶ったという口ぶりではないのう」
 ジルは頷く。
「僅かでも救えるのならいい。全て無に還ってしまうよりは可能性が残っている方がいい。けれど犠牲があまりにも多すぎる。私たちの神はそれを大罪と判断するのだよ」
「大罪? 救う行為が何故罪なのじゃ?」
「天はそれを救いと判断しない。犠牲にした者の数を罪と判断する」
「皮肉なものじゃ」
「天は平等故に残酷さを孕む。それでも……だからこそ、私は人が生き延びる道を諦めてはいない」
 星が衝突して二つが滅んでしまう前に片方を犠牲にして片方を救うという行為は、救いではなく多くを一度に殺したという罪になる。
 おかしな話だと思う。
 そうしなければ全てが滅んでしまうと言うのに、そうする行為が罪になるのだ。
 でもそれが天としては正しい判断であることをジルは良く分かっていた。何においても平等でなければならない。ジルのいた世界で人が神になれない理由も、神が追放される理由も、全てそこにあるのだ。
 天は何に対しても平等に判断しなければならない。だから、ある一部の者にとっては救いの行為であっても罪と判断する。犠牲にするものの数が尋常ではないからなおのこと。
 でもやはり罪になることが分かっていながら見ない振りは出来なかった。世界が滅ぶことを知ってていながら、全てを運命と割り切って諦めてしまうことはできなかったのだ。
「私は生まれてから、人間を諦めた事はない」
 人の持つ可能性。
 人の心の善意。
 人を救える可能性。
 それを信じているからこそ、神には成り得ない。
 あちらの世界では不老長命である王達を神のように扱う者も多い。実際、普通に生きる人間達が奇跡と呼ぶような事も出来るし、神のようにも見えるのだろう。でも、神と呼ばせないのは王達が自分たちが神では無いことを知っているからだ。
 長く生きているだけの人間。
 寿命が長い分、重い者を背負う義務のあると言うだけの人間。
 愚かさもあればおごりもある。時に道を誤ることさえある。連れ添った人間や、他の種族の者が、自分より先に老いて死んでいく姿を見ると自分とは違う事を見せつけられているような気分になる。
 それでも、自分は人間以外のものになった覚えはない。
「私には君も人に見えるよ。種族が少々違っていたとしても、人より少々長生きだったとしても」
「……」
「私が君が裏切らないと思っていると君が信じたいのならそれが真実だよ、メル。君は、私がどんなときに怒るか、どんな時に剣を抜くのか知っているのではないのかね」
 暗闇の向こうで、エラムが気に入らなそうに眉を顰めたのが分かった。
 女性の愛称のような呼び名が気に入らないのだ。
 それに構わずジルはその名前で彼を呼ぶ。
「それと同じで、私はメルがどんな風に生きているのか知っている」
「御主とて我の歩んできた道の半分も知らぬじゃろう」
「でも少なくとも君がどんな態度で私に向かい合っているのかは知っている。……私たちの人生の中ではほんの短い間だけれど、私は君と過ごし、君は私と過ごした。例えどちらかが先に消えたとしても、出会ってこうして酒を酌み交わした事実は消えることはない」
「……ミルド達のことを言っておるのか」
 ジルは笑う。
 四百年以上生きてきたというのに不器用な男。
 否、だからこそ不器用になってしまったのだろう。
 この世界は彼に優しく無かったから。
「メル、別れのない出会いなんてどこにも無いのだよ」
 いつ寿命が尽きるかも分からない長命な自分たちだとしても。自分たちにとって瞬く間に消えていってしまうような命だったとしても、出会った以上、必ず別れが来る。
 エラムはジルの言葉に応えず、強くなり始めた風の気配を感じて小さく呟いた。
「……嵐が酷くなりそうじゃの」

>>続く

終わり無き冒険へ!