Novel:05 落ちた篝火『街の話』 3/4
その街に一人の男がたどり着いたのは昼というのに妙に薄暗い日だった。鈍色の雲が厚く上空を覆い、遠くでは雷の音が響いている。
不吉な予感が人々の心の中をよぎる中、男はゆったりとした足取りで街の中を歩いていた。長身で細身の男。髪は鋼のような光沢を持った黒。地に着くほど長かった。その瞳は赤く、どこか人を蔑むような暗い瞳をしていた。
男は他の旅人達と同じように宿屋に入っていった。何か嫌なものを感じながらも客を追い返すわけにも行かない宿屋の店主は「前払い」を頼み彼を泊める部屋を準備していた。
遠くでオオカミが鳴く声が聞こえる。
不吉だ。
どうも嫌な予感がする。
「嫌な予感がするか」
声をかけられ店主はびくっと肩を振るわせる。
いつの間に来たのだろうか。
真っ黒い髪の男が戸口の所に立っていた。頬に奇妙な紋様が刻まれている。先刻会ったときは、こんな紋様があっただろうか。
「い、いやね、こんな妙な天気なんてこの所無かったから、ちょっと気分が沈んでいるだけですよ。スミマセンね、何だか辛気くさくて。そうだ、楽団でも呼びましょうか。少しは気分が晴れるかと……」
嫌な気分を誤魔化すように店主は早口でまくし立てる。
男は笑みを浮かべた。
「いい案だ。声楽がいい。人の声は人を癒してくれる」
男が近づき店主の目の前に拳を出した。
何かされるのかとびくついた店主だったが、男の出したものを見て目を瞬かせた。
金貨だった。
「これで人を呼ぶといい。私は今、気分が良い。今宵の酒肴は全て私がまかなってやろう」
「よ、よろしいので?」
「かまわん」
男は笑っている。
きっとどこかの名のある魔法使いか何かだ。下手をすれば王宮付きの魔術師かも知れない。気に入られればいい事があるかも知れない。とびきりの歌手を呼んで夜の酒場を盛り上げよう、と店主は急いで準備を始める。
妻をせかせてとびきりのご馳走を作らせ、掃除も入念にした。上等な酒を仕入れ、街で一番歌の上手い女を呼び、念のために楽団を待機させる。
そんな準備が整う頃だった。
男がゆったりとした動作で降りてくる。
ゆらりと蝋燭が揺れた。
歌が始まり、男に酒と食事を勧めると、男は優雅な身振りで酒を飲み始めた。
「……このあたりに来るのは私の念願だった」
男がぽつりと言う。
「またどうしてです?」
「土地が良い。呪力に溢れ、私の力を強くしてくれる」
じりじりと蝋燭が溶ける。
揺れる蝋燭の火を反射して、男の瞳は蘇枋に光る。
男はくつくつと笑った。
「今日は日が良い。今までは日が良くとも、ここに大きな障害があって来ることがかなわなかった」
「しょ、障害……?」
「お前達が、追い出してくれたのだ、感謝をしている」
「え?」
どん、とまるで突き飛ばされたような感覚があった。
燭台の明かりが全て消え、女達が悲鳴を上げた。
あははは、と男の笑い声がこだまする。
半狂乱になりながら人々が逃げまどう中、男は一人の女の髪を掴んでにたりと笑う。
「神様がせっかく守り神くれたのになァ、可愛そうに、あの子供、二度と戻っては来ないぞ、可愛そうに」
キヒヒ、と動物が甲高い声で泣くような声だった。
恐怖のあまり、女は短い悲鳴を上げて意識を手放した。
男は女を手放して逃げ始めていた男の首に手を巻き付ける。人の手ではなく、まるで触手のようだった。
男が悲鳴を上げるよりも前に、その触手が彼の首を絞める。
「こう言うのを因果応報って言うんだよなァ……お前らが選んだんだ」
ぎょろり、と男の瞳が回転する。
「人の声は良い。断末魔が良い! もっと、もっと楽しませろっ!」
「た……助けて……」
「気持ちは分からなく無い。だが、少々悪戯が過ぎているよ」
不意に間近で違う声を聞いた。
瞬間首を絞められていた男はどさりと地面に落ちる。ばさり、と揺れる鉛色のマントが見えた。
「……貴様」
黒髪の男が後ずさる。
マントの男が笑いを含んだ声で言う。
「去りなさい。……これ以上過ぎれば相応の対処をさせてもらう」
「くっ」
男が怯えるように目線を逸らし、慌てたように走りだした。その姿が一瞬深く沈み、獣のような姿を現す。人々はすぐにそれが魔物であることを理解した。
やれやれ、とマントの男が息を吐く。
街の人間達が男を見て息を飲んだ。
男の瞳も赤かった。
あの魔物の仲間では無いかという疑念が浮かんでいる様子だった。
赤い瞳の男は笑う。
「同じ事を何度も繰り返すつもりか」
「何を……」
「あの魔物の言葉、あるいは心当たりがあったのではないのかね?」
「……」
「この街は元々あのようなものを引き寄せやすかった。その上、守りの要が欠けたとなれば、いずれまたあのような魔物が現れるだろう。あれは人を驚かして楽しむ悪魔。あの程度の悪戯好きの小物だったから良かったものの、もっと大物が来るやもしれん」
ざわりと人々がざわめく。
「あの、それはどうしたら」
「城壁のように魔法をかけてもらうか、あるいは腕の立つ者を雇うことだ」
「あんたは……」
ふう、と男がどこか呆れたようにため息をついて懐から札のようなものを取り出した。
「私はなるべく早く戻らねばならぬのでな。これを街の四隅に貼っておくと良い。それで暫くは寄りつかないだろう。だが長くは‘保たせない’」
それは長く保たせる技術がありながらも、しないという意地の悪い言葉だった。
恐怖におののいていた待ち人達はすがるように男の衣服を掴んだ。
「なぁ、あんた、出来るんだろ? 助けてくれよ」
ある者は祈るように、ある者は助けるのが当然と言わんばかりの態度で男に言葉を浴びせ続ける。
力の出し惜しみをして、大金をせびるつもりか。
この町を見捨てるつもりか。
お願いです、助けて下さい。
身勝手な言葉に男は笑う。
「助けてくれ? 自分から幸運を手放しておいてよく言えたものだ」
「だが、あんな魔物の子をこの町においたままにしておけば……」
「あの子が一体お前達に何をしたという?」
一瞬、街の人間が息を詰まらせる。
言葉が出ないという様子だった。
ある女がたまりかねて大声を上げた。
「りょ、両親を殺したじゃないか」
そうだ、と声が挙がる。
「あの呪われた力のせいで親が死んだんだ! あいつは親殺しだ!」
「事故だと聞いている」
「事故なものか! そうだ、あいつが殺したんだ!」
「魔性の子だ、何をするか分からない。今回のことだって、あいつが街を恨んで……」
そうだ、そうだ、とざわめきが強くなる。
あの子供がいたからこの街は不幸になった、あの子供さえいなければ、生まれて来なければ平穏だったのに。
俺たちは悪くない。悪いのはあいつだ。
そのざわめきが一際強くなった瞬間だった。
どん、と地鳴りがする。
男が自分の持っていた剣を地面に突き立てるように叩きつける音だった。
街が、しんと静まりかえった。
「人には人を不幸にする力などないよ」
静かな声だった。
だが、どこかに怒りの色を含んでいる。
「あるとすればそれは人の心がそうするだけだ。あの子が何をした? これだけの大人がありながら、あの子に何をしてあげられた? 本来ならば守られる年頃の子、そなたらは助けようとせず悪魔と謗り、ついには追い出した」
「わ、私は出て行けなんて一言も……」
「傍観し、他の者が行動するのを待てば罪にはならぬと思っているのか? 人の法ならば許されることもあるだろう。だが、天はそれを罪と判断するだろう。罪深き者の街、一時でも猶予をやるのだから感謝こそされ責められる謂われはないよ」
冷たく突き放すような言葉だった。
街人がすがるように食い下がった。
「なら、あの子を返してくれ! あんた、あの子がどこにいるか知っているんだろう!? なぁ、返してく……」
興奮し、取り乱している男にもその瞳の冷酷さは理解できた。
口元は笑っている。
だが、目が全く微笑んでいないのだ。
冷たい瞳で睨まれた男が震えながら彼から離れていった。
乱れた衣服を直し、マントの男は言う。
「三日だ。……その間に、対処を決めなさい」
ばさり、と音を立ててマントが翻る。
立ち去ろうとする男を引き留められる勇気ある者は、その街にはいなかった。
>>続く