TheGrinningMoon 〜Epilogue〜

「いいこと? 紳士だって身だしなみが大切よ。皆同じ服を着ていたって、着こなし方や生地で家柄なんてすぐにわかってしまうのだから」

少女の声が部屋に響く。
注意された当の本人・・・いや、本猫はその金の双眸で声を発した少女をちらりと一瞥すると、我関せずと言った雰囲気でそっぽを向いた。

負けてはいない少女も、黒い毛並みを抱き上げて膝に乗せる。
猫が不服そうに にゃぁ、と鳴いた。

「皺のあるシャツはだめ。生地はリンネルね。ズボンとコートはちゃんと仕立てて体にあわせてもらうのよ。あぁ、タイは真っ直ぐに。帽子とステッキと手袋も忘れちゃだめよ」

猫の非難には耳を貸さず、少女は言葉を続ける。
その内容は紳士の身だしなみについてであるが、勿論、少女は本気でこの黒猫に紳士の身形をさせようというのではない。
これは彼女にとっての真面目な遊びの一つである。

「招いて下さった方にお会いしたら、ちゃんとご挨拶するのよ"奥様、今夜はお招き有難うございます"って。 ホラ、練習してみなさい」

上流階級の嗜みは真似事ではなく、少女自身が母親から厳しく躾けられていることだ。
まだ社交界に出たとこのない少女にとってその場所は憧れでもあるが、関係ない者にとっては良い迷惑でしかない。
黒猫はするりと少女の膝の上から逃げ出した。

「もう、ちゃんと聞いているの? わかったのなら "分りました、お母様"って返事するのよ。ねぇ、クリソベリルったら!」

猫にとってのお母様、というのは少女自身を指す。
しかし猫は少女の呼びかけを知らん振りして、少し離れた場所で毛づくろいを始めた。

「全く、お父様が見たらなんて仰るか」

少女は眉を顰める振りをして、腰に手を当ててため息をつく。

そしてふと、少女は何かを思い出したような気がして遠くを見るように目を細めた。
お母様が自分を指すなら、お父様とは誰のことだろう。
確かに今、自分は誰かのことを思い浮かべながら お父様と言っていた。

「ねぇ、クリソベリル・・・あなたは分かる?」

そっと、囁くように猫に問う。
ビロードのような毛並みを撫でた後、アリスは窓辺の人形に目を留めて立ち上がった。

黄色い毛糸で髪を作った少年の人形。
手にとると、人形の頭上のウサギ耳が揺れた。
この人形を作ったのは、何かを忘れないように、だった。

何を?

暫く考えて、しかし やがて諦めたかのように一度目を伏せてから視線を窓の外に移す。

砂糖を塗したような輝く星々の中にぽっかりと浮かぶ丸い月。
今夜は満月だ。

そこでまた一つ、何かが胸にひっかかる。
誰かが昔、月の前で痛いような笑顔で笑っていた。

誰?

少年の人形を元の位置に戻すと、揃いで作った少女の人形が凭れかかるように倒れた。

そのとき一瞬だけ月の光が何かに遮られた。
雲ではない。

アリスは窓辺に近寄り、月を見上げた。
再び月の光が遮られた。
遮ったのは白い鳩の群。

だけどアリスが目を丸くしたのは、それが理由ではない。
月が。

満月が笑うような三日月の形になったのだ。

胸が、跳ねた。

そうだ、どうして忘れていたのだろう。
アリスは考える間もなく、すぐに踵を返して階下へと駆け下りた。
ほどけたままの髪がひどくもつれることも、自分が寝間着のままだということも気にしている暇はなかった。
鳩の群が向かった方向へと、一生懸命走る。
息が切れても決して立ち止まらなかった。

そして遂に、アリスは目の前に立つ人影をみつけた。

夜空と同じ色の燕尾服にシルクハット。
鈍く輝く髪は、月の光のような金色。

涙が、アリスの視界を歪めていく。
少年は少しも変わらない笑顔で優しく微笑んだ。

「また、会えたね」

落ち着いたトーンの声。
なんだか酷く懐かしい。

あの時、まだ幼い少女だったアリスは、既にその幼さから抜け出そうとしている。
しかし少年の方は、昔と全く変わらぬ姿。

思わず胸に飛び込んだアリスの身体を、少年は動じることなく ふわりと抱きとめた。

「思い出してくれたんだね」

少年が囁くように言った。

「ごめんなさい、私・・・絶対忘れない、って言ったのに」

涙が溢れて止まらない。
困ったように少年が微笑む。

「アリス、泣かないで。もう充分だよ」

頬の涙を白い手袋が拭って、それからそっとアリスの髪をなでた。

いつの間にやってきたのか、アリスの黒猫が にゃぁん、と甘える声を出して少年の足元に擦り寄る。

「やぁ、君も 思い出してくれたんだね」

そう、仔猫だったこの黒猫をアリスに預けたのは少年だった。

「クリソベリル、お父様にちゃんとご挨拶するのよ」

アリスが言うと、少年がくすりと笑った。

「お父様? それは僕のこと?」

もちろん、とアリスが答えると 少年は笑った。
微笑に、かつてのような寂しそうな影は見当たらない。

触れ合った部分の少年の体温が とても心地よい。
アリスは顔を上げて少年の瞳を見つめた。
優しい光を帯びた赤い瞳。

少年がアリスを見つめ返す。

「これからは、いつだって 会えるよ」

少年の瞳が悪戯っぽく煌めいた。

「君が、僕の夢を みてくれるからね」

二人の背後で、満月が微笑んだ。









少女はもう、少年のことを忘れない。
目覚めても、成長してからも ずっと。
いつか結婚して子供ができれば、少年の話を子供達に聞かせるだろう。

少年を知った子供達は、少年の夢を見る。
何度も、
何度も 楽しい夢を見る。

そしてまた、その子供達に話を聞かせる。

少年はもう夢を彷徨う必要がない。
思い出してくれる人が居る限り、何度でもその夢で会えるから。




彼は、帰る場所を見つけたのだ









+ End +

ただ君と一緒にいたかった