楽しき悪夢 〜第2章 騒々しき悪夢 2〜

「今の状況はだいたい、そんなところだ」
「ふぅん」

 俺が昨夜のあらましを語って言葉を結ぶと、フェイズはベッドに腰掛けたまま対して興味なさそうに相槌を打った。

「ったく、今日はいつもと違うんだからちゃんと聞いとけよ」
「知らないけど、ちゃんと聞いてるよ」
「嘘つけ」

 額を小突いてやると、フェイズは唇を尖らせて不服を表現した。
 俺はそのまま、部屋を横切って扉の方へと向かう。そのことに気が付いたフェイズが、ベッドから立ち上がって俺の後を付いてくる。じゃらり、とフェイズの腕の鎖が重そうな音をたてた。

「どこへ行くんだい」
「散歩」

 重い扉を開いて廊下に出る。朝とはいえここは城の北西だから窓から入ってくる光はほとんどなく、城の光源は壁の燭台ぐらいだ。だから朝陽が苦手な俺でも、こうして自由に城内を歩ける。廊下に足を踏み出すと、使用人の一人がふわりと俺の目の前を横切り、先回りして蜀台に炎を燈していった。見慣れた、いつもの光景。

 俺とフェイズは並んで、長い廊下を歩いた。

 廊下の姿見の前を通り過ぎた時、フェイズが突然足をとめた。見れば、こめかみを抑えて鏡を覗き込んでいる。そこについた傷に気付いたらしい。あれは昨夜、狼野郎が窓を割って入ってきた際についた傷だ。

「痛むのか」
「いや、そうじゃないけど」

 痛くはないと言いつつも、気になるのかフェイズは傷を触りながら鏡を見つめている。顔にデカイ傷があるんだから、今更そんな小さな傷、珍しくもないだろうに。

「おい、そんなに気になるなら俺が・・・」
「・・・っ!」

 腕を引き剥がして、その傷を治してやろうと思ったのだが、うっかり爪を引っ掛けてしまったらしい。フェイズが少しだけ眉を顰めた。
 悪い、と謝罪の言葉を述べようとした瞬間、くらり、と視界が歪む。

 鼻腔を掠めるこの香り

 海のような

 鉄のような

 ゾクリと悪寒が走って、首筋の毛が全て逆立つ。
 フェイズのこめかみに、真新しい血が滲んでいる。
 大したこと無い、直ぐに直ぐに乾く傷。だけど。

 俺は自分のこんな本能が嫌で、人里離れたこの城に住むことを選んだのに。体に流れる卑しい吸血鬼の血が、逃げることを許してはくれない。戦いの中で埃に紛れてしまえば、気にしないで済む物を。こんな、なんでもない時は、一度気付いてしまった渇きを忘れることが難しい。それでなくても、昨日は騒ぎの中で食事を抜いている。

 脳を支配しようとする本能を必死で押しとどめるも、手は無意識のうちにフェイズの頭に添えられていた。

 視界に、鮮明な赤だけが焼きついて他がぼやける。

 俺は その味を知っている

 それは

 きっと


 甘い


「アレックス」

 呆れたような、咎める響きを含んだフェイズの声。だけど舌先で感じたこの甘さが、留め金を外してしまった。もう、止めることができない。

「・・・僕だって寝起きで血が足りないんだけど・・・」
「悪い」

 謝罪の言葉を述べつつも、俺の手はフェイズのシャツの襟を開く。そのまま、縫い傷を避けるようにフェイズの首筋に顔を伏せた。

「・・・っ」

 牙が刺さる痛みにフェイズが僅かに身動ぐ。

 他に動くものも、音を立てるものもない。城の中は静けさに包まれている。

 と、分厚い絨毯を踏みしめる気配、そして、小さく息を飲む気配が背後から伝わってきた。
 見られた。反射的に体を起こして振り返る。

「誰だ!?」

 俺の視界の隅で横道へと消える、長い茶の髪。

 今現在、城内に居る長い茶髪の持ち主と言ったら、一人しか居ない。リィンだ。
 今の現場を一体どう解釈したか・・・話がまたややこしくなりそうな予感、己の浅はかさに思わず深々と息が吐き出される。まさか、こんなところまで出歩いてくるとは思わなかった。

「大人しくしててくれると助かるんだがな」

 怯えて縮こまるぐらいの方が手懐けやすい。リィンのようなタイプは、行動の予測がつかない。まぁ、女性的にどちらが好みかと問われれば、俺は断然後者の方ではあるが。
 傷のある首筋を手で抑えながら、フェイズがきょとんとした顔をする。

「誰?」
「例の城の居候」

 フェイズはふぅん、と呟く。

 念のため角のところを漂っていた使用人に今のが誰かを確認したが、聞くまでも無い。ただ、リースの方は一緒じゃなかったらしい。何故かと問えば、リースは倒れた、との短い返事。

「倒れた?」
「病気?」

 とりあえずは、ただの風邪のようだということだった。まぁ、旅の無理が祟ったんだろう。無理も無い。少女二人でこの山を登って来ただけでもたいしたものだ。
 フェイズは首を傾げて少し考え、それからすたすたとリィンの去った方へ歩き出す。

「おい、フェイズ」

 呼びかけると、フェイズは足を止めずに一言だけ返してきた。

「様子見てくる」
「見てくるってお前・・・」

 心配しているのか只の好奇心か・・・まぁ後者だろうな・・・。何よりも好奇心が先に立つのがフェイズの性格だし、基本的に城の中での行動は思うままにさせるのだが。
 もともと神経質になっていたリィンのことだ。リースが倒れたということで余計に気を張っているに違いない。そこに、飄々としたフェイズ。しかも・・・

 駄目だ、確実に火に油を注ぐ。

 もう一度、胸のつかえを取るぐらいの勢いのため息を吐くと、俺は諦めてフェイズの後を追った。