時は嫌にゆっくりと進んでいるように感じられたけど、実際は一瞬の出来事だったんだと思う。
気が付けば私は、アレックスのマントの後ろに庇われるようにして立っていた。
「リース、リースは・・・っ!?」
「落ち着け。あの子は大丈夫だ」
慌てて身を乗り出した私の体を押し戻すように手を広げながら、アレックスが言う。
割れた窓の向こう側のリースの方をみると、リースを腕の中に抱きかかえたフェイズの背が見えた。
リースの変わりに破片を浴びたのだろう。
彼が羽織っていた黒のジャケットには無数の破れ目が見える。
「フェイズ、大丈夫か!?」
アレックスの呼びかけに、フェイズがゆっくりと身体を起こすと、こめかみから血が流れ出ているのがわかった。他にも、無数の小さな傷があって血が滲んでいる。
「大した事ない」
彼は血を拭うこともせず、リースにそっと微笑みかけた。
「君は大丈夫?」
まだ、恐ろしさで身が震えていた様子のリースも、なんとか首を縦に振る。
よかった。彼女には大した傷はないようだ。
私はリースから、手前の破壊された窓の方へと視線を移した。
破壊されたときの衝撃か、その周囲の蝋燭の火は消えていた。
そうして出来上がった黒々とした空間の中に、ガラスの破片を踏みしめて人影が立っている。
その人影が窓を破壊した元凶・・・外から飛び込んできたに違いない。
でも、ここって3階なんだけど。
「へっ、なんだか見慣れない奴らがいるんで目標が狂ったぜ」
影が低く笑った。
「・・・いい加減に諦めたらどうだ?こっちは毎晩毎晩付き合わされていい迷惑だ」
アレックスが静かに言う。
抑えてはいるが、その声音には確かに怒りが込められていた。
そのことに、闖入者も気付いたようだ。
「おっと?アンタ、珍しく怒ってるのか?」
その問いに、アレックスは無言で答えた。
闖入者は面白そうに笑って続ける。
「へぇ、あのツギハギ野郎に傷をつけたからか?だが今更あいつに傷が一本増えたところで対して目立ちゃしないだろうが」
私の目の前で、ぴくりとアレックスの指が反応する。
「アレックス。僕はたいしたことない」
フェイズが諌めるように言った。
だけど、アレックスの調子からは先ほどまでの優雅さが消えている。
「この単細胞バカが。今までは、俺がわざわざ手加減してやってたっていうのに。そんなに死に急ぎたいか?」
「へ、こっちだって本気出してない相手に、全力出すほど落ちぶれちゃいないんだよ。いいから本気出して戦えよ。そしたら遠慮なく、そのすかしたお綺麗な面をこの爪で引き裂いてやるからよ。晴れてツギハギ野郎とお揃いだ。悪くないだろう?」
言葉は飄々と吐き出されているが、そこには明らかな敵意が含まれている。
影の中で、彼が腕を翳すのが見えた。
消えていた蜀台に再び火が燈り、闖入者の姿が光に照らし出された。
背はアレックスと同じぐらい。
茶色の髪に翠の目をした男だった。だけど人とはとても言い難い。
まずは掲げられた腕。
肘から指先まで硬そうな獣の毛に覆われていて、人にしては大きすぎる手の指先には鋭くて長い爪が並んでいる。同じように、不敵な笑いを浮かべた口許にも牙がずらりと並んでいた。
人の耳があるべき場所にはピンとたった獣の耳。
猫の耳のように見えないこともないけれど・・・全体的に見て、あれはきっと犬科の・・・狼の耳だ。
そこまで考えが辿り付いたところで、私は背筋が粟立つのを感じた。
狼男・・・?まさか!!
第一狼男って満月の夜にしか現れないんじゃなかった?
慄いた私を他所に、アレックスは特に臆した様子もない。
後ろ手で私の体をイルカの石像の方に押しやると、吐き捨てるように言った。
「調子に乗るなよ、この犬っころが。文字通り吠え面かかせてやるから、さっさとかかってきな!」
二人は、一瞬睨み合ったかと思うと、次の瞬間には私の目の前で衝突した。
狼男の右手の爪がアレックスの頬を狙ったかと思えば、アレックスはそれを左腕で払い落として右腕で喉笛を狙う。今気付いたことだけど、良く見れば、アレックスの指先にも長く鋭い爪が生えていた。
二人はとても追いきれないほどのスピードで掴みかかりそして離れることを繰り返した。
相手を掠める手や足は、時に、壁や、壁に飾られた絵に当たっては、それらを簡単に破壊した。
狼男はともかく。それと対等に渡り合っているアレックスの動きすら人外だ。
私がどうしようもできなくて石像にしがみ付いていると、飛んでくる壁やなにやらの破片を避けながらフェイズとリースがやってきた。
「困ったな」
言葉とは裏腹にさして困った様子でもないフェイズのこめかみからは、未だに血が流れている。
「い、一体何なのよアイツら!?どうみたって人外だわ!!」
私が詰め寄ると、フェイズは首を少しだけ傾げて答えた。
「まぁ、狼男と・・・吸血鬼、だし」
リースが手を口に当てた。
「なんですって・・・!?」
私はあまりのことに大声をあげた。尤も、その人外の二人の闘いが激しすぎて、対して響いたわけではないけれど。フェイズは私の大声を無視して、石像に片手を置いた。
「ちょっと!吸血鬼って・・・!?」
叫ぶ私を一瞥してから、フェイズはイルカの石像を台座から外した。
いや簡単に言ってるけれど、そんな生易しいものじゃない。
彼の細腕のどこにそんな力があるのかと問いたくなるほどの力で、外したというよりは無理やりもぎ取った感じだった。ボコッと盛大な音をたてて、イルカと台座が接していた部分に無数のヒビが入って砕け散る。
金髪の少年の手に、もぎ取られたイルカの石像。
起きている事柄に大して、どうにもビジュアルが決まらないんだけど。
これだけははっきりしている。フェイズはとんでもない怪力だってこと。
この人も十分人外だわ。
私はリースの手を引いて、一歩さがった。
何をするのかと怯えて見守る私達の前で、彼はもぎ取ったイルカの石像を片手で軽々と持ち上げたまま、未だ格闘する二人の方に向き直った。そして、私の上半身ほどもある大きさの石像をひょいと投げつけた。
それ程力を込めていたようには思えなかったのに、イルカは物凄いスピードで宙を飛んだ。
そして、組み合って睨み合っていた、アレックスと狼男の顔の間をギリギリ掠めて、奥の廊下の壁に激突した。今までの何よりも盛大な、破壊音が響き粉塵が舞った。あまりの衝撃に、石像どころじゃなく壁すら粉々に砕け散っている。
組み合っていた二人が、こちらにゆっくりと青ざめた顔をむけた。
そんな二人に、フェイズは満面の笑みを浮かべて、爽やかに言った。
「二人とも、喧嘩は駄目だよ」
不毛な戦闘に関してのみ言えば、それで結末を迎えたのだ。
だけど、私とリースの中では何も終ってはいなかった。
次から次へと休むまもなく展開する物事に、私達は完全に振り回されている。
もはや台座だけとなってしまった哀れな石像(像とは言えないが・・・)の影で、私は本日2度目の、どうしてこんなことに・・・を唱えた。
フェイズがこちらを振り返った。顔には相変わらず微笑みを浮かべている。
「もう大丈夫」
個人的には、これから先の私達の運命を考えると、とても大丈夫だなんて思えないのだけど。そう心の中で毒突いた私を他所に、リースはフェイズの傍に駆け寄って腕を伸ばした。
「リース!?」
見れば彼女は、ずっと放って置かれていたフェイズのこめかみの傷をハンカチで拭っている。
臆病なようでいて、こういった場面でも物怖じしないのは彼女の凄いところだと思う。
「あの、さっきは助けてくれて有難う」
彼女は律儀にもお礼を言った。
きっと、狼男が飛び込んできたときのことだろう。
フェイズは一瞬だけきょとんとして、それから優しく微笑んだ。
「大した事じゃない。君こそ、有難う」
フェイズは彼の傷を看ようとしていたリースの手を握って彼女の瞳を見つめた。
そして・・・
この後の展開を思い出すと、私はいつも遣る瀬無い気持ちになる。
今日、これで3度目のセリフだけど。
何がどうしてこんな展開になってしまったのか分からない。
あろうことか・・・
あろうことかフェイズは、リースに、
キス
・・・を、したのだ・・・