第1幕:追憶 03
廊下を歩いて、階段を降り、再び少し歩いて階段を降りた。
肌に触れる空気は、下に降りる程にひんやりとして、湿気を帯びていくようだ。
どこか埃臭い香りもしていた。
唐突に母親が立ち止まった。
「まだ目を開けては駄目よ」
母親が少しイライラしたように声を発した。
少年は何も言わずに、ただこくりと頷く。
じゃら、と金属の束が触れ合う音がして、何かがカチリと嵌まる音がした。
扉の鍵を開いたんだ、と少年は目を閉じたまま理解した。
重そうに軋む音を響かせて、扉が開く。
「さぁ、入りなさい」
頼りにしていた母の手が離された。
思わず立ち止まるも、背中を押されて少年は恐る恐る前へ進んだ。 目を閉じていても、周囲がふっと暗くなったのが分かった。 外に出たわけではなく、どこかの部屋の中に入ったらしい。
先ほどよりも強くなったカビや埃の匂いがつんと鼻孔を突く。
知らない場所に、ぽつんと一人で立たされて。喜びに満ちていた気持ちを不安が覆っていく。
少しでも確かなものを求めて、無意識のうちに腕の中の人形を強く抱きしめながら、彼はそっと母親を呼んだ。
「お母さん」
彼の声は何も無い空間に吸い込まれて消えてしまったようだ。
母親は返事をしない。 彼に続いて部屋の中に入ってくる気配もなかった。
まだ目は瞑っていないといけないのだろうか。
「お母さん」
もう一度呼ぶも、返事はない。
変わりに、バタン、と戸が閉まる音がした。
次いで聞こえたのは、ガチャリと鍵がかかる音。
反射的に彼は目を見開いて背後を振り返った。
部屋の中は薄暗くて良く見えない。
でも自分が狭い部屋にいるのはわかった。 その部屋の扉が閉められているのもわかった。 母親は部屋の中には居ない。
期待が打ち砕かれて、まさかと思った現実が母親の呟くように吐き出された言葉に肯定される。
「さよなら、 」
急ぐように扉から遠ざかる足音が聞こえた。
さよなら?
折角会えたばかりなのに、彼女はどこへ行くというのだろう。
迎えにきたのだと言ったのに。
「お母さん!」
彼は扉に跳び付いた。
抱いていた人形が床の上に落ちて埃にまみれたが、そんなことはもう彼は気にしてはいられなかった。
両手でノブを掴み、扉を開けようと必死で回す。
だが、緩んだドアノブがガチャガチャと音を立てるばかりで、扉の開く気配はない。
母親の足音は、立ち止まることなく次第に遠ざかっていく。
置いていかれてしまう。
悲しい思いが、彼の全身を冷たく凍らせる。
「お願い、開けて!」
少年は扉の向こう側に呼びかけた。
しかし、返事は当然返ってこない。
「ねぇ、開けてよ!!」
もう誰もそこに居ないことは知っていたが、それでも扉にしがみ付いて叫んだ。
「開けて!! 出して!!」
小さな手のひらで、精一杯扉を叩く。だけど分厚い木の扉は 震える気配すらない。
硬い扉に拳を打ち付けて、手が赤く腫れ、声が枯れても。
諦めきれずに一心に、彼は長いこと呼びかけ続けた。
良い子にしていて欲しいというなら、望まれるだけの良い子になる。
表に出るなと言うなら、一生部屋の中に閉じこもっていてもいいから。
可愛がってくれなくてもいい、一緒に居られたらそれだけで嬉しいのに。
背後の小さな窓から夕日が差し、部屋を仄かに赤く染めた。 扉に映る自分の頼りない影。 その向こうに、ここには居ない人の温もりを求めながら少年は最後の声を振り絞って叫んだ。
「行かないで、お母さん!!!」