第1幕:追憶 02

「  」

不意に少年の名前を呼ぶ声が聞こえた。一瞬、目の前の人形がついに話すようになったのかと思って凝視してしまったが、そんな筈はない。

「  」

もう一度名前を呼ぶ声が聞こえ、少年は道化ウサギから顔を離す。
部屋の扉が少しだけ開いていた。 扉の影に隠れて、声を発した者の姿は見えない。だが、その声を彼は知っている。他でもない、少年の母親の声だ。

母親が子供の名前を呼ぶのは、世間一般では至極当然のことだ。 しかし彼の生活にはずっとそれが無く、突然のことにどう返していいか戸惑ってしまった。

母親は少年の前には姿を見せないまま、扉の隙間から肘から先だけを覗かせて揺らしている。 ゆっくりと上下に揺れるそれが、おいでおいでと 自分を招いているのだと気付くのに数秒かかった。

「お・・・お母さん?」

彼が彼女を呼ぶと差し込まれている手が一度びくりと震えたが、再びゆっくりと上下に揺れる。

「  、こちらにいらっしゃい」

母親が確かに彼の名前を呼んだ。 突然のことに躊躇う少年に、母親は少し焦ったように繰り返す。

「ほ、ほら、おいでなさい。迎えにきたのよ」
「はい」

迎えにきた、の言葉に少年の顔は輝く。 嬉しくて思わず椅子を飛び降りながら、道化ウサギの手を忘れずに掴んで引き寄せる。 そして、ぽんぽんと人形を跳ねさせながら扉に駆け寄った。
母親は慌てたように付け足した。

「待って。  。目は閉じて。しっかり瞑って頂戴。良いところに連れていってあげるから」

彼はちょっとだけ悩んだが、立ち止まって、言われたとおりに目を閉じた。

「うん、お母さん。僕、目、閉じたよ」
「・・・そ、そう。そのままにしていなさい。良い子ね」
「うん」

彼は、ぎゅっと目を瞑ったまま頷いた。
きぃ・・・と扉がゆっくりと開く気配がした。

ふわりと空気が動く気配がして、彼の手に温かいものが触れた。
母親の手だと気付いて、少年は 目を開いて抱きつきたい衝動に駆られる。

母の顔が見たい、ぎゅっと抱きしめて欲しい。

だけど彼は口には出さなかった。 母親が言うことを聞く彼を”良い子”だと言ってくれるのなら、良い子のままでいたい。 だから、余計なことは何も言わなかった。
せめてと、覚えている範囲での母親の顔を頭に想い描く。とても穏やかで、優しげに笑う母親の顔を。

「じゃあ、行きましょう」

返ってきたのは想い描いた顔に当て嵌めるには不似合いの、感情のない冷たい声。その声と共に ぐいっと手をひかれて彼は自分の部屋を出た。
よろめく様にして踏み出すと、廊下の空気がヒヤリと冷たい手で彼の頬を撫ぜる。

部屋から出たのは、一体いつぶりだろう。
彼は自分が住んでいる部屋の外がどのようになっているのか、実は良くは知らない。 彼が今よりも小さかった頃は・・・父親がまだ自分と母親の傍にいた頃は、もっと彼の世界は大きく沢山の人間達が居たのだが。 彼の能力が周囲に知れる度、その世界は小さくなり、そして周囲の人間も減っていってしまった。

部屋から出るなという理不尽な言いつけに、それでも彼は子供らしい我侭一つ言わず、毎日ずっと待っていた。

やっと、迎えに来てくれたんだ。

手を引かれながらじわじわと彼は嬉しくなった。
彼が母親を最後に見たその時。 彼女の手は冷たくやせ細っていた。 だが今、彼の手を握る手は、ふわりと暖かい。それは一緒に、まだ幸せの中に暮らしていた頃の母の手と同じで。 だからまた、以前のように一緒に暮らせるのかも知れない。 だって良いところに連れて行ってくれると言ったから。 それ以上何も言わないのは、びっくりさせるつもりだからだろうか。

手を引かれるまま よろよろと歩いていた少年の足取りが、次第にしっかりとした早歩きに変わる。

母親は何も声を発しなかったが、少年には不安はなかった。
一人じゃないから大丈夫。

彼は片腕に大切なウサギの人形を抱き、そしてもう一方の手で強く母親の手を握った。
目を瞑ったままの彼の頼りは、温かな母親の手だけだった。