第1幕:追憶 01

ベッドと、机と椅子が1脚。そして小さなクローゼットと本棚。
家具はあっても とても子供の為の部屋とは思えない程 飾り気の無い簡素な部屋にその少年は居た。

肩まで伸びたさらさらの銀の髪に、透き通るほど白い肌。大きな紅玉のように赤い瞳を少し潤ませた彼の見目は、まるで人形のように精巧で、可愛らしいよりも 美しいと形容した方が相応しく思える程・・・・・・それが、深紅の幼少時代の姿だった。

幼少時代とは言え、今の彼とその頃の彼に見目では大きな差はない。少し身長が伸びた程度だろう。
だけど彼の置かれた環境には天と地程の差がある。

その頃の彼はまだ自分を普通の人間だと信じていたし、”深紅”という名前でもなかった。 だが、幼い頃の名前を深紅本人に訊ねても、彼は笑いながら、忘れてしまった、とだけ答えるだろう。

その言葉は嘘か本当か。 他人には知る由はないので、幼い彼のことは ただ少年と呼ぶしかない。

さて、その少年は、まだ今の仲間達の誰のことも知らずに、殆どの日々を静かに一人で過ごしていた。

本来ならば、大人達に大切にされても疑いの無い年頃であり、容姿である。
だが彼の周囲には愛情を注いでくれるような大人の影は一つも見当たらなかった。 部屋の戸は硬く閉ざされ、その扉の前を行き来するような足音も聞こえない。 彼の居る屋敷に住む人間は皆無ではないのだが、まるで誰もが隠れているようにひっそりとしていた。

それは別段 珍しいことでもない。
少年はずっと長いこと、そんな静かな世界のなかで暮らしてきたのだ。

日に1度、扉の前に食事が置かれる。そして週に1度、メイドが彼の部屋を掃除しにくる以外には彼の部屋の扉が開かれることも、彼を誰かが尋ねてくることもなかった。

彼の母親でさえ、この部屋を訪れることはない。 いつも全てを召使達に任せているので、お互い声を聞くことすら 殆ど無いのだ。 もしかしたら彼女はこの屋敷には住んでいないのかも知れない、と少年は度々思う。

部屋に入ってくるメイドも、少年の顔を見もせず話しかけてもこない。 彼女達はそれこそ少年が人形であるかのように 存在を見ないフリして、淡々と作業をこなして部屋を出て行くのだ。
彼女達は皆、のっぺりとした仮面をつけていて、着ている服も同じ。 となれば、少年にとっても彼女達は個性のない機械人形のようなもので。彼は、メイド達が部屋に居る間は一つしかない椅子に座って下を向いたまま、静かに掃除が終わるのを待つだけだった。


そんな彼の唯一の話相手が、いつも膝の上に乗せている小さなウサギの人形だった。
ウサギとは言っても、ウサギに見えるのは頭の部分だけで、体の造形は人間に近く作られている上に、おどけた道化師衣装を纏った奇妙な人形だ。

可愛らしいとは言い難いが、その人形は彼にとってとても大切なものだった。

この人形を母親が買ってくれたころ、その頃はまだ彼女は自分の子供である彼を愛して、そして守ろうとしてくれていた。 おぼろげな記憶を辿って、少年は今よりもさらに幼い頃を思い出す。
そう、街に小さなサーカスがやってきた時のことを。

その頃はまだ、彼の傍には母親がいて、一緒にサーカスを観に行った。
暗い照明のなか、音楽にあわせて鮮やかな衣装を纏った道化師や踊り子達が、曲芸を披露する姿を見た感動は、少年の脳裏に深く焼きついている。
興奮冷めやらぬ状態で、彼は母親の手を握って、その感動を繰り返してたその帰り道。 彼の様子に微笑んだ母親が買ってくれたのが、この道化師の格好をしたウサギの人形だった。

思い出せる記憶の中で、二人で一緒に出かけたのは ただその一回だけ。 そして、母親が自分に何かを買い与えてくれたのもその一度だけなのだ。
楽しい記憶と一緒に大切にしてきた人形。他に何も持ち得ない彼の、唯一の母親との繋がりだった。

少年は人形を机の上に置いてガラスの瞳をじっと見つめる。 すると焦点の無い、真っ赤な瞳が彼を虚ろに見返してくる。何も映さない瞳は、彼にとっては逆に安心できるものだった。ウサギが少年を傷付けることは決して無い。

その変わり、ウサギの人形には何の感情も無く、彼の呼びかけに返事を返してくれることは無い。 そんなときは背中のゼンマイを巻く。 すると、人形の小さな体かから優しいオルゴールの音色が聞こえてくる。 その音楽を返事の変わりに、少年は話しを続けるのだ。

ウサギは少年が動かさなければ静かに横たわるだけなので、少年はいつもちゃんと両手で抱えてから話しかける。

「君と僕は似ているね」

たどたどしさを残した発音で、少年はぽつりと呟いた。
白銀に輝く毛並みと、赤い瞳は、少年の髪と瞳に良く似ているのだ。

「僕はこの色はあんまり好きじゃないけど。君には似合ってると思うよ」

いつものように道化ウサギは答えることはない。

ずっと繰り返してきたそれだけの生活。
少年はその日も、変わらぬ一日が過ぎていくのだと思っていた。